裁判員裁判の実施が目前に迫っている。5年前の法制定後しばらくしてから、盛んに模擬裁判が行われるようになった。そこで最初に取り上げられたのが殺人未遂事件である。刃物で被害者を刺したことまでは争いがないが、その際被告人に「殺意」があったか否か(殺人未遂罪か傷害罪か)が争われる。事実認定に争いのある事件の中では比較的単純でわかりやすいという理由によるものらしい。しかし、この「殺意」―人を殺そうとする意思、あるいはその行為によって被害者が死ぬことはわかっていたがそれでもかまわないと思っていたこと(この後者が悪名高い「未必の故意」というもの)―なるものは、そう簡単につかまえられるものではない。掲記の二冊は、「殺意」の発生とその実行をテーマにしている。
角田光代は、掲記の本について自ら次のように語っている。
「『憎しみの感情があふれて殺意に変わり、行動を起こす瞬間』を知りたいと文芸誌での連載を始めた。だが、どうしても行動を起こすところに行き着けない。・・『人を殺す何か』はいまもわからない。しかし、殺意を押しとどめているのは日常の分厚さなのだ、と気づいた。・・憎しみと殺意は連続した線じゃない。」収録されている七つの短編は「憎しみ」のオンパレードだが、例えば、「死ねって感じ!」と呟き続ける女はついにナイフを手にできない。
他方、トルストイの掲記の本は、殺意を文学的にとらえた傑作と評されている。妻の不貞を疑った男が妻を短剣で刺し殺す。実際にあった事件を下敷きにして殺意発生までの男の心理が克明に語られる。そして実行。「・・妻が両手でわたしの手をつかみ、咽喉からふり放そうとしたので、わたしはさながらそれを待っていたかのように、力いっぱい短剣を左の脇腹の、肋骨の下あたりに突き刺しました。憤りの発作にかられると自分のしていることをおぼえていない、なんて言う人がいますけど、あれはでたらめです、嘘ですよ。わたしはすべてをおぼえていましたし、一秒たりと記憶をとだえさせたりしませんでしたからね。自分の内部の憤りをますます強く煽りたてるほど、意識の光がいっそう明るく燃えあがるので、その光の下では自分のしていることのすべてが見えぬはずはないのです。どの瞬間にもわたしは、自分が何をしているかを承知していました。・・肋骨の下を刺したのも、短剣が入ってゆくのも、知っていました。・・」
例えば、後者の事件の起訴状は次のように書かれるであろう。「被告人は、妻YがXと懇ろな関係になり不貞をはたらいているとの疑念を深めていたが、某日、自分の留守中にXが自宅に来ているのを偶然に知って妻の不貞を確信し、憤激のあまりYを殺害しようと決意して、自室にあった短剣を持って妻の部屋へ押し入り、殺意を持ってその腹部を突き刺して・・・殺害したものである。」しかし、その殺意発生を納得できるまでには、優に本一冊分の解説が必要であった。起訴状記載の事実、本に書かれた事実そしてほんとうの生の事実、事実とは実に重層的である。 |