●小説で見る裁判・事実・真実(2)
 武田泰淳「ひかりごけ」
石塚章夫  
 芸術における真実は虚と実の薄い膜の間にこそある、というのは近松門左衛門の「虚実皮膜論」だが、この小説は、裁判上の真実もまたこの虚実皮膜の間にあることを見事に表現している。

 作者は、北海道知床に取材旅行に出かけ、中学の校長の案内でマッカウシ洞窟へひかりごけを見に行く。その校長は「国境の漁村の田舎校長という、自己の運命と役割を、冷静の見抜いて、ジタバタする代りに、悪気のない苦笑で、いくらか喜劇的に、その役割をうけとめている。何の警戒心も反感も起させない、おだやかではあるが陰気のない人物」である。見る角度によって丸い輪のようなひかりごけが見えたり見えなかったりするという体験を二人でした帰り道に、作者は校長から人肉食の話を聞く。それは、「大東亜戦争酣たりし昭和一九年一二月三日早朝」、軍務を帯びて羅臼港を出港した漁船(船長以下七名)が、暴風雪で遭難し、辿り着いた船小屋(漁民が、春は雲丹を、夏はこんぶを採取するため宿泊し、冬期は使用しないで打ち棄ててある小屋)で、船長が少なくとも三名の漁船員の死体の肉を食べ、翌二〇年の春に救助された、というのである。作者は、これを聞いた後「羅臼村郷土史」を調べて、この事件の詳細を知る。そして、この事件を伝える方法を思案したすえに、一篇の戯曲を作ったとしてこれを紹介する。この戯曲は、第一幕は洞窟での惨劇の場面、第二幕は船長が死体損壊罪等で裁判を受ける法廷の場面である。その最後は、人肉を食すと頭の後ろに黄金の輪が浮かぶという船長(被告人)の話を聞いて、裁判長、検察官、弁護人、傍聴人までもがこれを見に船長のところに集まってくるが、その集まった全員の頭の後ろにつぎつぎに黄金の輪が浮かんでくる、というところで終っている。

 ところが、この脚本の中で、船長である被告人が作者をひかりごけの洞窟に案内した校長そっくりであり、惨劇の場面も船小屋でなく作者が案内された洞窟として描かれていたことから、冒頭の取材旅行も含め、この話全体が実は一篇のフィクションであることに読者は気づかされ、ひかりごけと黄金の輪のを繋げた作者の構想力に感嘆する。だいいち、人肉食の話などを公的な郷土史にわざわざ載せるはずがない。

 ところがである。現存する「羅臼村郷土史」にこの話が載っており、また北海道警察史誌によると裁判も本当にあったのである。虚を通り抜けた後の実の存在感と、それを裁く虚の法廷の実在感がひときわ際立つ。そしてそのことによって、この小説の最後の「人が人を裁く」ことへの問いかけに一層の迫力が生まれるのである。(新潮文庫「ひかりごけ」所収)
(平成20年6月)