●小説で見る裁判・事実・真実(1)
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
石塚章夫  
 読書に関心のある人ならだれでも、本書との関わりを意識したことがあるに違いない。ドストエフスキーには興味がないという人は別として、(1)本書を読もうと思っているがまだ読めていない、(2)読み始めたが途中で挫折した、(3)全部読み通した、の3つに分かれ、さらに(3)は、(4)読了までどのくらいの時間を要したか、(5)再読、再々読をしたか、といった枝分かれをする。

 私自身は、初め(1)で、大学1年生のときに米川正夫訳の岩波文庫版を買い、以後約40年間、引っ越しの度に段ボール箱と書架を往復して中身まで黄色に変色したものを、今から5年前に読み始めた。第1巻で躓いたが、読み通すと広言した手前止めることができず、4箇月かかって何とか最後までたどり着いた。今回、亀山郁夫訳(光文社文庫)で再読したところ全く別の本を読んだような衝撃を受けた。翻訳の差あるいは古典を読み返すことの意味をあらためて痛感した。本書は、一種ミステリー仕立のエンタテイメント小説風ではあるが、そのテーマは、現代にも直結する、愛、死、宗教、性、金、虐待などについての深い考察がそれにふさわしい場面で語られているところにある。

 しかし、裁判における事実と真実に関しても、本書は深刻な問題を提起している。長男ドミートリーは、父親を殺害したとして起訴され陪審による裁判を受ける。1861年の農奴解放後の一連の改革で、帝政ロシアにも陪審制度が導入されていた。ドミートリーは犯行を否認するが、情況証拠は不利なものばかりである。犯行の計画を広言しかつ詳細な手紙まで書いている、犯行時間帯に現場におり兇器と矛盾しない銅杵を所持していた、現場から無くなった3万ルーブルに相当する金を事件直後に使っている、これだけの情況証拠が揃うと、真犯人が実際に出てこない限り、どのような裁判であってもドミートリーの有罪は動かし難い。そしてこの物語では、真犯人が別にいるのであるが、その真犯人は裁判の直前に自殺してしまい、真犯人から真相を聞いた二男イワンは、法廷でそのことを証言中に統合失調症の幻覚に襲われ、支離滅裂になってしまう。

 現在の裁判における有罪の証明基準は、「通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得ること」とされている。右に述べた情況証拠に照らせば、ドミートリーの犯行の証明は、この「真実らしいとの確信」に達しているのである。裁判という場での事実認定は、確からしさ、本当らしさの反対側にある真実を抹殺してしまう危険を避けることができない。ここに裁判の悲劇がある。「それは、人が人を裁くことにともなって生じうる、避けがたい悲劇である」(青木英五郎「ドミートイリ・カラマーゾフの裁判」)
(平成20年4月)