● 私の裁判官生活は何だったのか(40年間の総括と展望)
安原 浩
  1. はじめに 
    私は,今年(2008年)6月23日に,約40年間の裁判官生活を定年で終えました。
     今回裁判官ネットワークの例会でお話をさせていただく機会を得ましたので,これまでの裁判官生活を振り返り,今後に役立つものがあるかを検証してみたいと思います。

  2. 40年の裁判官生活の実態
     私は,司法修習生の時代に体験した裁判所の自由闊達な雰囲気にあこがれて張り切って任官しました。昭和46年(1968年)広島地裁に新任判事補とてし赴任したときの期待に胸膨らむ感じは今でも良く憶えています。
    広島に着任した同期の2人とともに,勉強会をしながら,勾留裁判を厳格にする努力をしたり,先輩裁判官との暖かい交流に楽しい毎日が続いていました。
     しかし,私が尊敬していた広島地裁の長谷川判事が転任拒否をしたことに対する再任拒否,青法協加盟を理由にしたと疑われる宮本判事再任拒否事件が立て続けに起き,いやおうなく司法の危機の渦中に巻き込まれていきました。理不尽な事態に対する激しい怒りがこみ上げるとともに,先輩裁判官が右往左往する姿に官僚組織のいいしれぬこわさを実感したものです。
    このころ合議体で,それまで先例のない屎尿処理場建設差し止め仮処分決定を出しましたが,果敢に新たな判断に踏み込む裁判長の姿勢に勇気を学びました。
    その後名古屋地裁豊橋支部,名古屋地裁を経て,東京地裁で初めて単独事件を担当するようになりました。いきなり無罪判決を2件出し,それが確定したことは大きな自信につながりました。また法服を着ない参与判事補制度について,裁判官会議でおそるおそる反対論を展開したこともありました。
    はじめて大阪高裁に勤務したのが昭和56年(1981年)でした。高名な刑事裁判官である石松竹雄裁判長のもとで大いに勉強したものでした。最初の起案は全部書き直しでした。ショックを受けました。また当時の事件数はかなり多く,貧血で倒れそうになったこともあり,高裁の仕事の厳しさも知らされました。
     もう一度平成元年(1989年)から4年間大阪高裁に勤務しましたが,2度の高裁 経験で自分が一審の裁判長になったらああもしたい,こうもしたいという夢がいろいろ 生まれたのが大きな収穫でした。 
    その後,平成5年(1993年)から10年間,神戸地裁姫路支部と大津地裁に勤務し,裁判長として自分の頭で考えた訴訟指揮をするようになりました。
    検察官の起訴状,冒頭陳述を被告人にも書面交付し,それに対する被告人の意見を聞く,いわゆる要旨の告知は省略する,事実を争う場合には,弁護人に冒頭陳述を求め,検察官に反論を促す,争点が明確になるまで証拠調べに入らない,判決を言い渡す場合は,判決文を被告人,検察官,弁護人(希望があれば被害者の遺族にも)に交付して朗読する,量刑理由は特に考慮した数項目を必ず明示するが訓戒はしない,贖罪寄付や社会奉仕活動を積極的に勧告する,などがそれです。
    大津地裁で逮捕手続きの適法性が争点となった事件で,警察官が逮捕手続きについて 偽証したことを理由に,証拠収集手続きの違法を宣言して無罪とした事件が最高裁で是認されたことが私の誇りになっています。
     広島高裁岡山支部長を経て,最後の仕事が松山家裁所長です。
     家裁では非公開手続きが多く,市民の理解が進んでいないと感じ,司法記者に家裁の特集を依頼したり,休日に家裁探検ツアーを実施して市民に家裁を開放し,調停や審判,裁判員裁判の説明コーナーを設ける,調停委員の公募制を試みるなどしてみました。

  3. このような裁判官生活をどうみるか
     判事補としての10年間は,無我夢中の時期で,判事としての30年間のうち,前半の15年は勉強の時期,その後の15年間は,ようやく自分なりの訴訟指揮や判断ができるようになった,いわば自立の時期といえます。
     そうすると,前半の25年間は一人前の裁判官とはいえなかったということになり,いささか裁判官として遅すぎる自立ともいえます。
     その原因として,私の性格的な弱さ,勉強不足などともに,新任当時に感じた得体の知れないこわさにあらわれたように,裁判所の管理的雰囲気から抜け出すのが難しかったことがあったといえます。

  4. なぜ自立が可能となったか
    遅かったとはいえ,それなりに自分の頭で考える裁判ができるようになったのは,一つは高裁時代のいろいろな経験が糧となったこと,もう一つは平成4年(1992年)に発足した裁判官ネットワークの前身ともいえる「コート21」での勉強会,その後平成11年(1999年)に発足した裁判官ネットワークでの議論が,私に大きな影響を与え,自分の頭で考えるよう促したことは間違いありません。
     それは,裁判所という組織内で,苦悶するだけでは新たな発想はなかなか生まれない,相互に励まし議論し合う自主的組織がどうしても必要であることを示していると考えられます。

  5. おわりに
     以上の点から,裁判官が自分の頭で考えることが大切であること,そのためには裁判官ネットワークのような緩い形の組織が有益であることが示されていますので,私としては,これからもサポーターとしてネットを全力で支え,その発展をはかりたい,また,裁判官が市民と対話する裁判員制度もあらたな裁判官像を生むものとして積極的にとらえ,今後弁護士としてできるだけ参加して行きたいなどと考えております。

(平成20年10月)