● 追悼中島通子 「一足先に逝ってしまったあなたに」
山田眞也(サポーター,現千葉県弁護士会)
 弁護士中島通子、年齢不詳。

 そう言いたくなるほどに、祭壇の遺影は、若々しい笑みをたたえていた。

 釈円通大姉だなんて早すぎる。それはないよ。

 ハワイの海岸で起きた突然の不幸。初めてきいたことだが、彼女は泳ぎが達者だったらしい。

 「息子も嫁も同業者なのよ」と満足そうに語っていた彼女は、多忙な日程を割いて出かけた家族旅行の旅先で、ダイビングの瞬間に心臓麻痺に襲われたとか。常に溌剌と、前向きに生きてきた人なればこそ、海神に魅入られたような死を迎えてしまった。

 奇しくも同じ7月30日が、小田実氏の命日にもなったが、病魔と闘い続けてついに力尽きた小田さんとでは、あまりにも対照的な人生の結末だった。

 8月3日、遺体帰国。

 5日に通夜、6日に告別式が、浄土真宗源正寺のお住職を導師として、三鷹市の禅林寺ホールで営まれ、私は告別式に参列した。

 最初に弔辞を捧げた福島瑞穂社民党党首は、「中島先生」と呼びかけ、女性弁護士の草分けとしての故人の業績を称え、「先生にあこがれて私は弁護士の道を選びました。私たちは、みな中島チルドレンです」と語った。

 たしかに、二人の間には、戸籍上20歳の年齢差がある。

 しかし、「任を敗軍の際に受け」て以来、孤軍奮闘を重ねている福島さんにはお気の毒だが、祭壇の笑顔と見比べれば、二人はせいぜい姉妹にしか見えない。

 続いて、戦争への道を許さない女たちの連絡会世話人・永井よし子さんが、イラク派兵違憲訴訟を引っ張っていった故人の情熱とエネルギーを語り、東京弁護士会会長下河邊和彦さんが、故人を失った法曹界の痛手の深さを嘆き、次が私の番で、最後は東京放送元会長の志甫溥さんが、富山の中学校で同級生だったころの故人の思い出を懐かしみ、切々と哀惜の情を述べて締めくくられた。

 冠婚葬祭恐怖症の私が、なぜここで弔辞を述べる役目を与えられたのか。
 いささか個人的な感傷過剰の私の弔辞を、あえて披露するのは、彼女と交流があったことを吹聴する最後の機会を活用して、せめてもの心やりとしたいからで、中島通子を惜しむ人の共感を多少でも得られれば、それも彼女の遺徳の賜という外はない。

 女性の会葬者の一人から、「お通夜も今日も、男の方が大勢見えました」ときいたことからすれば、男性の通子ファンも多いのだろう。

 私の弔辞に、「あいつばかりが格好つけやがって」と、ご不満の向きがあったら、あなたと同様な、「その他大勢」の思いを代弁したまでですと、理解を求めたい。


 中島通子さん。

 僭越ながら、時を同じくして丸山真男先生を師と仰いだ縁につながる「60年の会」を代表して、お別れの言葉を述べさせていただきます。

 1945年3月10日、首都の空を焼夷弾の炎が赤々と焦がした夜、何十機もの編隊を組んで襲来したB29が、老人も女も子どもも、無差別に殺戮し尽くした地獄図を、九歳のまぶたに焼き付けたあなたは、国家悪、権力悪を含むすべての悪、暴力に立ち向かう志を、しなやかに、しかし、たゆむことなく、生涯にわたって貫かれました。

 そのあなたに、最後に会えたのは、今年の3月31日、中島事務所恒例の新宿御苑の 花見を楽しむ集いでした。

 毎年の催しがいつまで続くのか、いくら元気な中島さんでも、もうそろそろ一人で事務所を背負って行くのは、大儀なはずだと思って、そういう問いを口にしました。
 別れるときにも、来年、またこうして会えるだろうかという疑問が浮かんだのですが、それは最近とみに進んだわが身の老化を苦にしてのことであって、中島さんだって生身の体だということは、全然頭に浮かびませんでした。

 実は中島さんが1935年9月、乙女座の生まれだということは、ずっと前から忘れたことがない。自分が同じだからです。中島さんは9月9日、私は同月4日。たった5日の開きしかないことを、ひそかに奇縁としていました。

 それでも自分が中島さんを見送ることがあろうなどとは、夢にも思いませんでした。

 同じ法曹とは言え、中島さんと私とでは月とスッポン。今となっては、惜しまれる人ほど早く行くのかという思いがしますけれど、これまで久しく世の中が必要とし、これからもずっと必要とするに違いない中島さんが、その期待に答えずに消えてしまうなどとは、全然考えられないことでした。

 しかし、毎晩その日のニュースを開くインターネットの画面に、中島さんの遭難を伝える信じられない文字が現れたときの失望、落胆。これが人生かと、茫然としました。

 思えば今から21年前、1986年の秋に、中島さんが徳島で開かれた日弁連の人権大会で、運営副委員長を務められたとき、忙しい日程を繰り合わせて、当時徳島地裁の刑事部にいた私の住まいに、寄ってくれたことがありました。10月16日の夜のことです。ぜひ、きてくれと頼んで、無理をしてもらったのですが、手土産に三越で買ったハムの詰め合わせをいただいて、気を使わせたと恐縮しました。

 中島さんにかねてあこがれていたという判事補の宮本初美さんに同席してもらって、自然保護、原発問題、生活感覚を欠く裁判官への批判など、話題が尽きず、京都大学在学中のご子息が司法試験をめざそうとしていると聞いたのも、そのときでした。

 その前年の1985年に、私にとっては裁判官在職37年を通じて最大の課題となった富士茂子死後再審事件で、亡き茂子さんに代って再審請求人となった故人の姉妹三人が、一人も欠けないうちに、ようやく無罪判決の確定にたどりつくことができ、この裁判を丸山先生も中島さんも、大きな関心をもって見守ってくださったと思いますが、そのころから、私は中島さんと、ほどよい距離を保ちながら、付き合ってもらえるようになったという気がします。

 もともと私は、中島さんとは同年同月の生まれなのに、駒場でも本郷でも出会う縁がなく、知り合うことができたのは、ひとえに私たちの卒業後、30年も解けなかった丸山先生の魔術的な求心力の賜で、未だに丸山山脈の裾野のあたりをただうろうろしているだけの私にとっては、それが先生から受けた最大の恩恵だと、ひそかに思っていました。

 漱石の三四郎にとって、美禰子との出会いは、生涯忘れられない思い出となったはずですが、美禰子にとっての三四郎は、その他大勢の一人に過ぎなかったという、いわば非対称的な関係。

 中島さんと私の場合、そういう世間にありふれた非対称的な関係が、三四郎池のほとりでは始まらず、お互いが中年になって、やっと芽生えたおかげで、私は美禰子に「迷える羊 ― ストレイ・シープ」と、気の毒がられずに済んだわけです。

 とにかく同じ法曹ということで、中島さんに近しく扱ってもらえたわけですが、71年の生涯を通じて、常に荒野に道を切り開き、時代の主役を演じ続けてきた彼女が、私にとって、そのことだけでも、まばゆい存在であったことは、申すまでもありません。

 そのヒロイン中島通子のために、取るに足りない端役の私が、弔辞を捧げるとは、破格の名誉というほかありませんが、少しもうれしくない名誉です。こんなはずではなかったという悔しさ。

 ましてご遺族の皆様のご胸中を思えば、言葉がありませんが、彼女の生涯を貫いた志は、 しっかりと受け継がれることと信じております。

 一足先に逝ってしまった中島さん。あなたの前には、極楽浄土の門が、大きく開かれているでしょう。しかし、やがて私たちの番が来た時、あちらの入国審査手続では、コネも偽造パスポートも通用しないらしいので、それまでに修行を積んで、何とかパスしたいと思いますが、もしイミグレイション・オフィサーにむつかしいことを言われたら、中島さんの証言をきいてくれと申しますので、その節はよろしくお願いします。

 今はこの世での多年のご厚誼に、最後のお礼を申し上げます。

 中島さん、通子さん。有難うございました。

(2007年8月6日)