● 高田渡と本田美奈子
中村元弥(サポーター・現弁護士・旭川)
 私にとって2005年は,高田渡と本田美奈子を喪った年として記銘される。それに比べれば,旭川弁護士会の会長として日弁連理事会で約40回も発言したことなど取るに足りないことである。

 私が高田渡という歌手の存在を「発見」したのは,1994年にNHKで放送された「日本フォークソング大全集」(このビデオテープを今日まで保存している物持ちの良さに我ながら感動した。)という番組であった。酒に酔った異形な風貌の男が番組の最中に寝始めたことに,これを放送したNHKの「冒険」に唖然としたものである。その後「ごあいさつ」などがCD化されるに至り,聞き込んでしまい,妻共々ファンになった。2000年から始めたコミュニティFMの番組で「いわゆる放送禁止歌」特集をするにあたり,自衛隊の街旭川で「自衛隊に入ろう」を流していいかどうか,社長決裁を求め,案外すんなりオーケーをいただいたのも懐かしい思い出である。

 高田渡の生のステージは,旭川の小さなライブハウスで2度見ている。2度とも,開演前にカウンターでお酒を召し上がっている「神様」の御姿を拝謁した。1度目は某女性フォーク歌手をゲストとしたツアーだったのだが,彼女の出番が終わってカウンターの方を見ると,「神様」は見事に熟睡しておられた。2度目は始まるなり,「今日は20分くらい歌って帰ります」と宣い(実際はもっと歌ったが),アンコールは「ギャラより高い交通費」という替え歌だった。しかし「神様」の信者たちは,いずれも心やさしい方々ばかりなので,決して怒ったりはしない。こうした話が嘘でないことは,なぎら健壱著「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)に納められた数々の逸話が証明している。ライブ終了後,厚かましく居残って「神様」と一緒にジンギスカン鍋をつつく幸運を得,つい調子に乗って「イラク戦争のご時世の下,今改めて『自衛隊に入ろう』はお歌いにならないのですか。」と尋ねて,危うく逆鱗に触れそうになった。

 高田渡が公演先の北海道白糠町で倒れ,釧路市の病院で急逝したのは2005年4月。享年56歳。同年5月の日弁連理事会終了後,本多劇場である舞台を見ていた私は,ふと思い立って井の頭線に飛び乗り,吉祥寺の小さな映画館でドキュメンタリー映画「タカダワタル的」(DVD化されているので是非見ていただきたい。)の追悼レイテショーを見た。意外に若い客席に混じってビール片手に故人を偲んだ。進行役の柄本明が「あの人(高田渡)を見て欲のない人ですよねっていう人がいるけど,それは違うよね。大変な欲だと思うよね。欲の場所が違うんだよな。見えないんだな。」と言うセリフは,至言だと思った。

 他の人が淡々と終わらせそうな国選事件について,「何か他の弁護人と違うことをやりたい」という欲に突き動かされるかのように,いろんな工夫を考えている自分を省みて,高田渡の「欲」ってこういうものだろうかと,ふと思う。この「欲」がなくなったら国選弁護受任を辞めよう,そして早く高田渡のようなジジイになりたいと思う今日この頃である。


 本田美奈子(あえてドットはつけない。)は司法試験受験生時代後期に最ものめり込んだアイドルであった(ちなみに前期は中森明菜)。デビュー曲「殺意のバカンス」を初めてテレビで見たときの衝撃は今でも忘れない。最近引越準備作業中に「本田美奈子87秋・冬」というタイトルを付けた昔のビデオを発見して我ながらあきれつつ,「ミュージック・フェア」で日野皓正や五輪真弓と共演する姿を18年ぶりに鑑賞した。今もアルバム「アヴェマリア」,「時」をBGMにこの原稿を書いている。
 2005年11月6日の日曜日に妻と石狩川河畔のサイクリングに出かけた私は,帰り道にふと「Oneway Generation」を口ずさみ,彼女の白血病の回復がもう少し早ければ,20周年も含めた話題性で紅白歌合戦初出場もあり得たのになあとぼんやり考え,たどり着いた自宅で訃報を知ることとなった。11月の日弁連理事会が1週間早ければ,私は間違いなく1日目の夜に朝霞まで赴いてお通夜に参列したに違いない。

 アイドルとしても(チャート1位はない),ミュージカル女優としても(「レ・ミゼラブル」のエポニーヌは,同じくアイドル転向組の島田歌穂の方が高評価),もちろんクラシック歌手としても「一流半」のイメージがつきまとった彼女だったが,タイミングを計ったような不慮の死によって「未完のオールラウンダー」として「伝説の星」となった。週末の死により,その週のワイドショーを占拠したことは,1992年の尾崎豊を思わせた。歌謡曲からクラシック・シャンソン・ロック(1988年に結成された「ワイルドキャッツ」は,菊池桃子の「ラ・ムー」との比較で語られることも多いが,この時期の活動を好むファンも相当数いる。)・演歌(「ミス・サイゴン」がなければ1年先輩の長山洋子と同時期の演歌転向もあり得た。)までカバーする未曾有の貴重な歌手として存立し得た可能性を思うと残念でならない。最後のテレビ出演となった2005年1月放送「題名のない音楽会21」(テレビ朝日)における「1986年のマリリン(オーケストラ・バージョン)〜命をあげよう(「ミス・サイゴン」より)〜誰も寝てはならぬ(「トゥーランドット」より,アルバム「時」収録)」のメドレーは,はからずも彼女の歌手人生の集大成だった。この収録時には既に病魔に冒されていたとはとても思えない。荒川静香選手のイナバウアーの背後に流れる旋律は,別の意味でも私の涙腺をいたく刺激したのである。

 もちろんクラシック愛好者から見れば「手慰み」程度のものだろうが,上記2枚のクラシックアルバムを聴き比べれば,彼女の進歩は明らかである。専門教育を受けたわけではない彼女が,ひたむきに自分の音域と表現力を広げていった姿,表現者としての誠実な求道の姿こそが,人の心を打つのである。
 「つばさ」,「ジュピター」(収録アルバムの発売は平原綾香盤より先,平原盤ヒット中にコミュニティFMで意地になって本田盤をかけたのも懐かしい思い出,平原盤も嫌いではないのだが),「青い週末」(最もアイドルらしい曲だがなぜか限定版),「The Cross−愛の十字架」(ゲイリー・ムーア作曲)といった埋もれた佳曲も多い。初心者の方には前記クラシック・アルバムの他,20周年記念ベスト盤「LIFE」をお薦めする。20周年を迎えた「今」の本田美奈子がこの収録曲を改めて歌い直せていればと思うと残念でならない(東芝のベスト盤にはアイドル時代の曲しか入っていないのでご注意を)。

 会員僅か34名の旭川弁護士会も,司法改革諸課題の奔流の中で,被疑者国選弁護・公判前整理手続・即決裁判手続・労働審判・心神喪失者等医療観察法その他多様なレバートリーをこなすことを求められている。たとえ「一流半」でも味わいのある「未完のオールラウンダー」として前進していかなければならない。小規模単位会会長としては,そんなことを彼女の歌声に包まれながら思うこのごろである。

(平成18年4月)