● ソクラテスと民衆裁判  ―それさえ言わなかったら―
山田眞也(元裁判官,現弁護士,サポーター)
 ソクラテスの裁判は紀元前三九九年、今から二四〇〇年前の出来事で、言うまでもなく歴史に残る最古の裁判である。

 これが今、我々の課題とされている裁判員制度と根本的に共通する思想に基づいた一般市民に有罪無罪の判断に加えて刑の量定までを委ねる方式によってなされたことは、何と言っても驚嘆に価する。

 惜しむらくは、この裁判は素人裁判の欠陥を露呈した誤判の見本とされ、おそらくそのために、現在、司法への市民の参加を説く論者の間でも、はるかな古代において同様な試みが実践されていた事実への言及は、ほとんどみられない。

 しかし、塚田孝雄著「ソクラテスの最後の晩餐」(筑摩書房・ちくまプリマーブックス)を読むと、裁判の中身は別として、裁判員の選定については、相当な手間をかけて、すこぶるまじめ、かつ周到な配慮が尽くされていたことが知られ、当時の制度が結論において大きな誤りに陥り易い欠陥を持っていたことはたしかだとしても、市民による裁判を実現させたこと自体を、大衆に媚びた無益な選択だったと決めつけてしまうのは当るまい。(ここまで書いた後で手にした「自由と正義」の最近号に、成蹊大学法学部の三谷太一郎教授が寄せられた論稿によって、ミルが「アテネ市民の司法参加は彼らの平均的な知的水準を古今のいかなる社会にも類例を見ない高さに引き上げた」と評価していたことを教えられた)。

 そしてまた、ソクラテス裁判そのものも、プラトンが「ソクラテスの弁明」で鮮やかに描いたように、裁く側のみに問題がある魔女裁判の類だったのだろうか。

 ソクラテスは一方的な犠牲者だったのだろうか。

 プラトンの記述を前提として、弁護士の職業意識で被告人ソクラテスの発言を吟味すると、彼はあえて裁判員を挑発して、避けられたはずの死刑の判決を招いたのだと言いたくなる。彼の弟子クセノポンも、当時すでに同様な思いを抱いていたようだ。

 ソクラテスの有罪は、五〇一人の裁判員中の二八〇人の支持を得て決まった。残りの二二〇人は無罪に票を投じた。

 アテネの法制では、こうして被告人が有罪と認められた後、法定刑の定めがない場合には、訴追者と被告人の双方が、どれほどの刑に処すべきかを申し立て、裁判員はそのいずれかを選ばなければならなかった。ソクラテスが問われた罪にも、法定刑の定めがなかったので、この量刑手続が必要となった。不合理に見えることだが、裁判員には、両者を「足して二で割る」式の間を取る選択が許されていなかった(イジドア・F・ストーン著「ソクラテス裁判」邦訳書二七三頁)。

 訴追側は死刑を要求したが、どこまで本気であったかは疑わしい。有罪の判決を得ただけで、彼らの目的は、一応達せられたはずであった。クリトンをはじめとするソクラテスの友人たちは被告人に、彼らが保証する銀三〇ムナの罰金を提案させようとした。ソクラテスが素直に彼らの好意に従うか、あるいは追放を受け入れると申し出ていたら、無罪意見の二二〇人に加えて、有罪意見の裁判員のうち三一人以上が被告人の提案を認め、死刑の要求が斥けられる見込みは充分にあった。ところがソクラテスは、有罪を前提とする意見陳述を拒否し、自分の行為は罪に問われるどころか表彰に価する、それにふさわしい酬いは、オリンピックの優勝者や功労著しい市民らが栄誉の印としてもてなしを受けるプリュタネイオンの食卓に招かれることだと大見得を切ってしまった(弁護人なら、もう、勝手にしてよと匙を投げるところ)。ソクラテスはその上念入りにも、諸君が選びたいのは追放であろうが、自分はこの年になって漂泊の境遇に甘んじてまで命を惜しむ気はないと言い切った後で、友人たちの顔をしぶしぶ立てるような態度で、自分は貧乏人だが彼らを保証人として銀三〇ムナの罰金を提議しようと述べたが、それまでの突っ張りですっかり気を悪くした裁判員たちは、本来あり得なかったはずの三六一票の多数で、被告人の死刑を決定してしまったのである。それでも一四〇人が罰金を是とする票を投じた。この人々の公正さは高く評価できるが、ソクラテスは、なぜこんな自滅的発言をしたのだろうか。

 名著とされる本の多くは、実際にはほとんど読まれていないと言っていいだろう。 岩波文庫で星一つの「ソクラテスの弁明」も、多分例外ではあるまい。

 私が定年を過ぎて半ば楽隠居の身となった今、ようやくこの文庫本を開いて読み始めたのは、先にあげた塚田孝雄著「ソクラテスの最後の晩餐」の一節に、気になる指摘があったのがきっかけだった。

 そもそもソクラテスが訴追された背景には、罪状とされた事実以外に、法的には追及できない別の事情があり、かつてソクラテスの熱烈な讃美者として知られ、ソクラテスからも愛されていたアルキビアデスが、指導者として国を誤ったばかりか、ついには敵国に通じてアテネを破滅させた罪について、ソクラテスにも責任の一端がありはしないか、アルキビアデスだけでなく、戦後の混乱期に恐怖政治を布いて、一五〇〇人を下らない市民の死をもたらした独裁政権の首魁クリティアスも、ソクラテスと親しい仲だったではないかという、全く根拠がないとは言い切れない非難が、ソクラテスを不利に陥れたとされている(クセノポン「ソクラテスの思い出」一二節『告発者が言うのは、ソクラテスと交友があったクリティアスとアルキビアデスとは、国家に最大の害悪を為したということであった』)。

 こういう見方は、ほぼ通説と言えるが、塚田氏はさらに、アルキビアデスがアテネの犯した最悪の戦争犯罪というべき、中立を訴えるメロス島の住民に一方的な攻撃を加えた末、降伏した住民中の成年男子を皆殺しにした暴虐行為の張本人であったことを挙げ、ソクラテスはこの事件について、全く口をつぐみ、一言の批判も加えなかったとして、ソクラテスを聖者扱いすることに疑問を投げかけている。

 前四一六年に起きたこの事件についての知識を、我々はひとえにトゥキュディデスの史筆に負っている。人類の歴史を通じて、これと同様な暴虐非道が記録にとどめられることなく埋没してしまった例は、記録された罪業の何倍に達するか、想像もつかない。しかし九十九までが忘れられた百の類例のうちの一つだけが記録されたのだとしても、この殺戮の罪深さに変りはない。

 ソクラテスがいつこの事実を知ったかは定かでないが、翌年の前四一五年には、エウリピデスの「トロイアの女」が初演されている。

 松平千秋訳「トロイアの女」の序言には、以下の印象的な記述がある(筑摩書房世界文学大系「ギリシア・ローマ古典劇集」から)。

 「四一五年はアテナイにとって重大な転機の年であった。あの運命的なシケリア遠征がついに決定されて、やがて全滅すべき大艦隊がペイライエウスを抜錨したのは、『トロイアの女』の上演後、わずか数ケ月のことであった。十年後に来るべきアテナイの敗戦は、まさにこの時に決した。またこれに先立つ数ケ月前にはメロス島の大虐殺が起っている。アテナイの心ある人士はこの非道に顰蹙したに相違なく、『トロイアの女』執筆の動機をここに求める見解もおそらくは正しいであろう。詩人はトロイア三部作によって祖国の非道に対する抗議と警告を発したのであり、またトゥキュディデスはこの神を恐れざる暴虐に対する神の懲罰をシケリア遠征の失敗に認めたのであろう。」

 ここにいうシケリア遠征こそ、アルキビアデスの野心に引きずられたアテネが無名の師を発し、最悪の禍を招いた愚行の極みであった。

 このころ、アルキビアデスがソクラテスの意見に耳を貸す可能性があったかどうかはわからない。しかしプルタルコスの「アルキビアデス伝」に見えるソクラテスとの親密な関係を根拠ある記述とする限り、アルキビアデスを全く戒めようとしなかったか、あるいは戒めることができなかったソクラテスへの評価が低下するのは当然であろう。

 アメリカの左派ジャーナリストとして知られるイジドア・F・ストーンは、一九八八年に出版された「ソクラテス裁判」で、ソクラテスの偶像化に対し、一貫して強い批判を加えた。ストーンは、クセノポンもプラトンも彼らの著作においてメロス島民の虐殺に関するソクラテスの発言を全く伝えていないと指摘し、ソクラテスの沈黙は虐殺事件における愛弟子アルキビアデスの不名誉な役割に抱いた苦々しい思いから生まれたのかも知れないと述べている(邦訳一五三頁)。

 だが、ソクラテスもプラトンもクセノポンも、戦時下のこのような残虐行為を、許せない悪として憎む価値観の持ち合わせがなかったと見る方が、もっと真実に近いのではなかろうか。

 森本哲郎著「ソクラテス最後の十三日」は、ソクラテスを死とまともに向き合った最初の哲人として描いている。

 七十歳の老体で獄舎につながれる苦痛に自若として耐えたソクラテスの忍苦や死を見据えて動じない沈勇は、ここに描かれたとおりであったろう。その反面、この作品はソクラテスのアルキビアデスへの思いには、全く触れていないし、ソクラテスがいやというほど体験したはずの戦争の悲惨についても、何も語らせていない。

 しかし、二四〇〇年前に生きていた実在のソクラテスは、亡命したアルキビアデスの横死の報をきいても、何も思わなかっただろうか。プラトンの「弁明」では、ソクラテスはアルキビアデスやクリティアスの名をあげずに、しかし明らかに念頭において、「私は私を誹謗する人々が私の弟子と呼んでいる人たちに対しても、正義に反して譲歩したことはない。私は誰の師にもなりはしなかった。私は報酬を得ることなく、誰の質問にも応じ、誰にも話をした。その人たちが世を益する人になろうとなるまいと、私が責任を負う理由はない。私は誰にも授業をしたことはないのだから」(弁明二一節)と述べている。それはソクラテスという名があまりにも大きくなってしまった現在では、いかにも説得力がない逃げ口上にきこえる。ソクラテス自身は、青年を惑わしたと責められるほどの影響力が自分にあったとは、決して思わなかったのかも知れないし、事実そのとおりだったかも知れないが、彼の審判者を納得させる弁明ではなかった。

 ソクラテスには不運なことに、アルキビアデスもクリティアスも、すでにこの世から消えてしまい、ソクラテスは彼らへの反感の余波を、身代りの羊として浴びせられたのであった。

 ソクラテスが勇敢な兵士であり、愛国者であったことに疑いはあるまい。また彼の古なじみのうちから、アテネに大害を及ぼした人物が出たからと言って、ソクラテスがその責めを問われるべき理由は、告発者たちも明らかにしてはいない。

 しかしアテネの政治体制は、市民たる権利を有するすべての者が政治への発言権を持ち、責任を負うという原則を認め、その実現をめざしていたはずであるが、ソクラテスは賢者の評判が高く、無知の自覚を促す人として広く世に知られながら、政治に積極的に参加して正義を実現し、不条理を正そうとはしなかった。

 「弁明」の中で、彼は具体的な二つの事実をあげて、自らが不正に加担することを命がけで拒んだと述べている(弁明二〇節)。

 その一つは、彼の民衆裁判への不信を決定的にしたと思われる事件で、前四〇六年にアテネの艦隊をひきいてスパルタ艦隊を破った指揮官のうちの六人が、海戦後に起きた暴風雨の結果、多くの兵員が遭難した責任を問われて死刑に処された際に、ソクラテスがここでは裁く側に立たされ、被告人らを各自個別に審判せず、慌しく一括して審判した手続の違法を、ただ一人指摘して、適法な裁判を求めたが、その努力も空しく、大衆に迎合する違法判決を阻止できなかったという苦い経験であった。あまりにも常識外れに見えるこの裁判は、アテネが敗亡への道をたどったのも当然と思わせ、これではソクラテスの裁判も、さぞお粗末なものであったろうと信じ易くなる。因みに、この事件については、死刑に処された指揮官の一人が、ペリクレスが遊女アスパシアに生ませた庶子であったことが、付言されるのが常である。傑出した指導者であったペリクレスは、必勝の算を立ててスパルタとの戦争に臨んだが、誰にも予期できなかった疫病が市民の三人に一人の命を奪うという事態が発生し、ペリクレスも嫡子二人に先立たれてしまった。彼自身も間もなくその後を追い、彼亡き後のアテネはシッチャカメッチャカの混迷に陥るのだが、ペリクレスは命が尽きる前に、アテネの市民権を与えるには父母ともに市民であることを要件とした彼自身の立法によって、アスパシアの子には市民権がなかったにもかかわらず、民会に泣きついて、この法令を廃止させた。かくて市民として世に出た子の運命が、ここで暗転したのであった。人智の限界という言葉が自ずと浮かぶ。古代最高の政治家とされるペリクレスにも、一寸先は、まさに闇であった。

 ソクラテスが不正に与しなかったと語るもう一つの例は、敗戦後のアテネが独裁政権に支配されていた時期に、レオンという異邦人を死刑に処するために連行せよと命じられたソクラテスが、これを無視して従わなかったという事実であった。現代風に言えばサボタージュだが、ソクラテスは命がけの選択であったと述べ、もし独裁政権がその後間もなく崩壊しなかったら、私の命はなかったであろうと強調している。

 これは実在のソクラテスにとっては、おそらく何の掛け値もない真実であったろうが、死後偶像化されたソクラテスのイメージからすれば、物足りなさを免れない話である。権力が不正への加担を迫るとき、それを拒むのにどれだけの勇気が要るか。我々はごく近い過去にそれを学ばされた。これからも、いつそれを思い知らされる時期がくるかも知れない。だからソクラテスのサボタージュは、当然、勇気の証明と認めていい。

 しかしサボタージュだけで敵を倒せる訳ではない。ソクラテスは、「独裁政権がもし早く倒れなかったら」と言うが、独裁はそれを倒すために血を流した人々の力で倒されたのであって、ソクラテスがその戦列に加わっていた訳ではない。

 ソクラテスは不正への加担を拒否したと語る一方で、「私が政治に積極的にかかわっていたら、とっくに命を失っていたろう」と断言して政治への参加を忌避する態度を明らかにし、「本当に正義のために戦おうとする者は、もししばらくの間でも生きながらえようとするならば、必ず私人として生活すべきであって、公人として活動すべきではない」という、すこぶる理解しにくい言明をしている(弁明一九節)。

 ストーンは、無論、このあいまいさを見逃さない。

 「正義のために戦うことが、危険を冒さずにできるというのか。不正を阻もうとするなら、民会でそれに反対する発言をし、票を投じる以外に、どんな方法があるのか」(「ソクラテス裁判」邦訳一四九頁)。

 プラトンによる「ソクラテスの弁明」は、こういう批判にさらされかねないわかりにくさを多分に含んでいる。

 それは結局、民主制に対して、ソクラテスが根深い不信を抱きつづけ、民衆裁判にもおそらく絶望していたこと、プラトンはさらに強い敵意を持ち、エリートの支配を理想としたことからきていると言えよう。

 どんな体制のもとでも、政治が汚れ仕事であることに変りはない。ソクラテスは、そんな政治に巻き込まれるより、もっと大事な仕事が自分にはあると信じたのであろう。しかし、おのれ一人が清くあればよいとしたソクラテスには、政治の主体たるべき市民としての責任感がなく、傍観は共犯に等しいという自覚は、なおさらなかった。

 もしソクラテスにその責任感があったら、彼ほどの人物がなぜペロポネソス戦争の愚劣さ、残酷さに、一言の抗議もしなかったか。舞台の上でソクラテスをさんざん笑いの種にした喜劇作家のアリストパネスは、反戦劇「女の平和」を世に問う気概があった。ソクラテスは思想家としてアリストパネスに勝っていたと言えるだろうか。

 ソクラテスが有罪評決に服しない態度をあらわにしたことと、後に彼が友人たちの脱獄の勧めを斥け、法の尊重を説いたこととの間に、矛盾はないのだろうか。

 ソクラテスの裁判は法に従って行われ、手続に違法はなかった。

 そうだとすれば、たとえ結論に承服しがたい不合理があろうと、これを受け入れるのが市民の義務ではないのか。白を黒とした裁判であっても、手続に違法がない限り、これに従うことが裁判制度の前提であり、冤罪を甘受することは、法に対する忠誠の証として、称賛に価しこそすれ、何ら卑屈の謗りを受けるはずがないことではないか。

 しかしソクラテスは、あたかも間違った判決に服しないことが、勇気と信念の証であるかのように振舞った。

 死刑確定後の脱獄を拒否したソクラテスの態度は、無論、称賛に価するが、それを遵法の鑑として、「悪法も法なり」という命題の一般化に結びつけることには、私はかねがね疑問を持っている。

 脱獄の拒否は、死刑囚自らの選択であればこそ称賛できるのであって、冤罪者の処刑を阻止する究極の手段として脱獄させることが、当然に許されないとは言えないのではないか。

 ソクラテスが脱獄するのを正当化する理由は、いくらでも考えられる。もっとも、もし彼が脱獄によって処刑を免れていたとすれば、哲学者ソクラテスの名は、誰の記憶にも残らなかったであろう。もっと正確に言えば、アリストパネスの喜劇中に諷刺の対象として登場する詭弁強弁の家元の名前としてのみ、生き残ることができたであろう。ソクラテスは死をいささかも怖れなかったとはいえ、まさか死刑になることによって、不朽の名を残そうと期待していたとは思えないが、結果的にはそうなった。

 ソクラテスの死刑を要求したのは、告発者たちの大失敗であった。追放を求める程度で辛抱していれば、ソクラテスの偶像化はあり得ず、プラトンが哲学史の大立者になることすら、なかったかも知れない。もっとも告発者たちは死刑でソクラテスを脅して彼をアテネから追い払いたかっただけだという説も案外に多い。

 ソクラテスが歴史に残るに価しない人物であったと言いたい訳ではない。歴史に残るに大いに価する人のすべてが、必ずそうなるとは限らないどころか、実は偶然歴史に選ばれた人だけが、望むと望まざるとにかかわらず、名を残してしまうのだ。

 日本という国が続く限り、大石内蔵助の名が忘れられることはあるまい。しかし、大石がいかに優れた人物であろうと、浅野内匠頭にもう少しの辛抱があったら、またはせめて刃傷の場で、吉良を討ち果たすくらいの心得があったら、三百年前に大石という男がいたことは、今日、誰ひとり知らないに違いない。

 ただ、歴史に残ろうと残るまいと、大石は大石、ソクラテスはソクラテスで、人間本来の価値が変るはずはない。

 一方、トゥキュディデスの一節のみに登場するアテネ人ディオドトスの名を記憶にとどめる人は、専門家以外には、まずいない。

 前四二八年にアテネが反旗を翻した同盟市ミュティレネを降伏させたとき、デマゴーグの典型とされるクレオンは、市民を説いてミュティレネの成年男子全員を処刑し、婦女子を奴隷に売ることを決議させた。今後、同盟市にアテネからの離反を思いとどまらせるための見せしめとして、アテネへの恐怖を植え付ける必要があるというのが彼の主張であった。この決定を現地に伝える船が出発した後で、さすがに考え直す市民が多くなり、翌日、民会が討議を再開し、前日の決議に強く抵抗したディオドトスが、再び熱弁をふるい、採決の結果、辛うじて処刑命令の撤回が決まった。しかし先の船が出てから、すでに一昼夜が過ぎようとしていた。撤回を伝える船は急ぎに急ぎ、先の船の方が、あまりの暴挙を命じる使命に船足を鈍らせていたために、処刑がまさに始まる間際で、紙一重の差でこれを中止させることができた。トゥキュディデスはクレオンとディオドトスとの論争を、まるで彼自身が速記していたように、詳細にわたって記述している。ディオドトスの事績は、この外に何一つ知られていない。しかし歴史から忘れられたに等しいこの男の方が、誰でも知っているソクラテスやプ・u档宴gンよりも、もっと大きな顕彰に価したのではなかろうか。ソクラテスは、この事実を知らなかったはずがないのに、クレオンの主張そのままの暴挙をアルキビアデスが実行するのを阻止できなかったばかりか、その後も沈黙を守った。ソクラテスを神棚に上げ、自分も同じ高みに納まってしまったプラトンにも、これを気にした形跡が見当たらない。

 プラトンは彼が描いたソクラテスの最期を、あまりに美化しすぎているのではないかと疑うのは、私ひとりではあるまい。

 死刑囚に毒薬を与えて死に就かせるという処刑の方法が、いつから行われていたのか、なぜ後世に残らなかったのか、そういう疑問に答えてくれる日本語の書物は見当たらないようだが、プラトンの記述を信じる限り、それは受刑者に安楽死に近い平静かつ品位ある死を与える方法のように見えてしまう。

 先にあげた「ソクラテスの最後の晩餐」には、ニカンドロスの「毒薬論」という文献から、プラトンの描写とは全く矛盾する以下の記事が引用されている。

 「毒人参は、葉も茎も実も根も、すべて猛毒である。これをすり鉢ですりつぶして飲むと、まず頭がしめつけられるように痛む。次いで分別が働かなくなる。五臓六腑が切り裂かれるような七転八倒の苦しみに見舞われる。辛さを訴えようとしても喉が詰まって声が出ない。一方、氷のような冷たさが悪寒とともに爪先からジワジワと上がってくる。こうして全身をかきむしる呵責とともに心臓が停止し、口を開け、白目をむいたまま、お陀仏となる」(同書一九〇頁)。

 しかしクセノポンにも、ソクラテスが死刑を前にして、「神が私に最も易しい仕方で人生を終らせてくれるのだ。それは死を見届けてくれる友人たちにとっても、見苦しくも恐ろしくもない死に方だろう」と語ったという記述がある。仮に毒薬による処刑が悲惨で見苦しい死を強いるものであったとしたら、いかにソクラテスでも、それを避ける道を選んだのではなかろうか。

 プラトンの記事をそのまま信じる必要はないが、ソクラテスは、やはり平穏に、品位ある死に方をしたのだろうと思う。

 ソクラテスの死後八〇年を経て、前三一八年に、政争に敗れたアテネの将軍フォキオンが、ソクラテスに与えられたのと同様な毒薬による死刑に処せられた。このとき同時に何人も処刑されたために、フォキオンが死ぬのに必要な毒薬の量が足りなくなり、執行人が不足分を手に入れるには金が要ると言ったので、フォキオンは「アテネでは死ぬのにも賄賂が必要なのか」と言って友人を呼び、小銭を与えさせたとプルタルコスが伝えている(岩波文庫プルターク英雄伝第九分冊二二三頁)。

 毒薬による処刑を伝える文献は、この外にほとんど見当たらないが、タキトゥスの年代記には、ネロが旧師のセネカに死を命じたとき、セネカが腕や足の血管を切り開いて死のうとしたが、なかなか死ねず、アテネで死刑に用いられたのと同じ毒薬を取り寄せて飲んだが、それでも効かなかったという記事がある(岩波文庫タキトゥス年代記下巻二九一頁)。

 最近、海外では、毒薬による死は本来の死刑の執行方法ではなく、むしろ処刑の苦痛や屈辱を逃れるために自殺する手段が恩恵的に与えられたのだとする説が現れている。

 シカゴ大学助教授ダニエル・S・アレン(女性)は、アテネにおける死刑はアポトゥンパニスモスと称され、罪人の首や手足を板の上に金具で固定したまま死ぬまで放置する方法で執行されていたが、ソクラテスが晩年を迎えるころから、毒人参をすりつぶした薬を購うことができる罪人が服毒して死ぬことを許したのであり、薬を手に入れるには十二ドラクマもかかったので(水夫の日当が一ドラクマだったといわれる)、ソクラテスのような貧乏人は、金持ちの友人がいなければ、苦しく屈辱的な処刑に甘んじなければならなかったろうと記している。もっともソクラテスは、銀一ムナくらいの罰金なら自分にも払えると言っている。一ムナは百ドラクマに当るから、仮にアレンのいうとおりであったとしても、毒薬の代価くらいは払えただろう。

 前述のフォキオンの最期を記したプルタルコスには、毒薬の調達が死刑囚の負担とされていたという認識はなかったと思われるが、それは時代の違いによるのかも知れない。アポトゥンパニスモスという聞きなれない言葉については、英語で検索すると、現在七件のヒットがあり、無用に苦痛を長引かせる残虐な刑であったことの指摘が目に付くが、おそらく文献上の記載と運用の実態とは、多くの場合、違っていたのではなかろうか。桜井万里子著「ソクラテスの隣人たち」では、これが「板の上の死刑」として紹介され、アテネで行われた処刑法は、これと服毒との二つだけで、絞首刑や斬首刑はなかったとされるが(同書一五六頁)、奴隷などは殴り殺されたとも言われている。

 ソクラテスの妻クサンチッペの悪妻伝説が、偏見の産物であることは、指摘するまでもあるまい。ソクラテスやプラトンも共有していた古代人の価値観、倫理観は、奴隷制度や男女差別を当然とし、何の疑問も抱かなかった。ソクラテスは毒杯を仰ぐ前に、妻にもう少し思いやりを示す言葉をかけられなかったのかと思うが、プラトンはそういう疑問を感じなかったのであろう。

 現代の感覚からすれば、妻子への配慮をまるで示さずに死刑になったソクラテスは、無責任極まる。

 ソクラテスが残した三人の子が、その後どんな人生をたどったかは、全く知られていない。父親のような人間にだけはしたくないというのがクサンチッペの願いで、そのとおりになったのかも知れない。

 とにかく三人の子がいたのだから、ソクラテスの直系の子孫が、現存してもよさそうなものだが、名のりをあげたという話はなさそうである。

 そこへ行くと違うのは中国である。昨秋、不法滞在で起訴された中国人の事件で、通訳をしてくれたのは、孔子から七十八代目の子孫に当るという人だった。孔子様はソクラテスよりも八〇年早く生まれた人だ。さすがに歴史の国だと恐れ入った。

 今日、インターネットの情報量は圧倒的である。むろん玉石取り混ぜて、というより石の方がはるかに多そうだが。パソコン一台が図書館に匹敵する時代だ。

 ソクラテスの時代については、「バルバロイ」という表題を掲げたホームページに、外では得難い情報が詰まっている。当時、世に知られた弁論家たちの、依頼人が法廷で裁判員の共感を求めるために綴った弁論の実例を、日本語で読めるのが、すごい。但し、私はまだ、ちらちらと眺めるだけである。

 そこかしこで読みかじった断片的な知識ばかりを取り留めなく書き散らしたことに、お許しを願いたい。事実の取り違えや甚だしい短見があるかも知れない。ご指摘下されば幸いの至りである。
(平成17年12月)