● 司法の統一性と等質性について
ファンクラブ一会員
 日本裁判官ネットワークの新春企画「座談会 裁判所の歴史を振り返る」に参加させていただきました。

 会員の裁判官や弁護士(元裁判官)のお話を聞くことができ,とても有意義でした。また,萩屋先生のお話も興味深く伺いました。

 もっとも,私は,遅れて参加してしまって萩屋先生のお話の大事な部分を聞き逃してしまったかも知れません。

 私は,こうした企画に初めて参加したのですが,講演会のようなものを想像しており,ちょっと遅れても後ろから入ってこっそり聞いてみようと思っていたのですが,小さな会議室でロの字形に席が配置してあって,参加者全員が自己紹介などするものですから,少し驚いてしまいました。もっとも,その結果,最初に述べたように,いろいろな方のお話を伺うことができたのですが・・・・。

 座談会では,「司法の統一性・等質性」について,いろいろと議論があったのですが,一見,自明のごとく言われている「司法の統一性・等質性」についても,実に様々なとらえ方があり,結局,具体的なイメージというのが,私には今ひとつよくわかりませんでした。実は,今回,私が座談会で聞きたかったのは,この「司法運営における統一性と等質性」の具体的な内容だったのですが・・・

 確かに,司法制度改革に関する裁判所の基本的な考え方として,最高裁判所が作成した資料「21世紀の司法を考える」には,わが国の司法制度の特徴として「統一性と等質性」ということが述べられています。しかし,私は,そのような「統一性と等質性」は,たんにわが国の司法の特徴の一つにすぎないのであって,国民一般から要求され,かつ,他の様々な理念に優先して守るべき価値かどうか,疑問に思っています。

 逆説的な言い方かも知れませんが,日本裁判官ネットワークの皆さんを見ていると,「かくも個性豊かな裁判官によって,日本の司法の均一性・等質性というものが保たれているとすれば,これは一つの奇跡ではないか」などと思ったのですが,どうでしょうか。

 座談会では,司法の統一性・等質性を確保するため,実に様々な研修・会同がシステム化されており,それはそれで必要なことであるという意見と,いや,そうした研修・会同は人事制度と密接に結びついており,司法の官僚統制に繋がっているという意見とがあったように思いました。

 しかし,私は,その点について少し問題が整理されていないような気がします。

 日本全国,すべての裁判所,都会であれ田舎であれ,どこであれ,優秀な裁判官による良質な司法サービスの提供を受けるという意味であれば,司法の均一性・等質性に異論のある人は少ないのではないかと思います。

 しかし,逆に,どの裁判官もまるで金太郎飴のようで,日本全国,すべての裁判所,都会であれ田舎であれ,どこであれ,受けられる裁判は皆,同じようなものでなければならないという意味で,司法の均一性・等質性というものが捉えられれば,ちょっと待てよという人も出てくるのではないかと思うのです。

 私は,「司法の均一性・等質性」という概念は,司法サービスの向上を目指す概念ではなく,最低限のサービス(ミニマム・サービス)を提供する概念なのではないかと思っています。つまり,より良いものであれ,より悪いものであれ,とにかく異質なものを排除する際の根拠となるのが「司法の統一性・等質性」という概念ではないかと思うのです。そして,異質なものという評価の対象となっているのは,サービスの内容(判決)であり,そのようなサービスを提供する主体(裁判官)の個性なのではないでしょうか。

 そうなってくると,司法の統一性・等質性は,人事評価と分かちがたく結びついてくるように思えます。過度の司法の統一性・等質性の要求は,裁判官の統一性・等質性(無個性・没個性)を要求につながってくるのではないでしょうか。

 ところで,今般の司法制度改革で,最高裁判所は,「司法運営に当たっては,全国的に統一された制度のもとで,等質な司法サービスを提供し,等しく公正な裁判を実現することが重視されている」として,その統一性と等質性の尊重を謳っています(「21世紀の司法を考える」)。しかし,これは,果たして本当にそうなのでしょうか。私は,司法の統一性・等質性というのは,それは単にこれまでのわが国司法の特徴の一つに過ぎず,21世紀の司法運営や制度設計にあたっては,統一性や等質性はそれほど大きな指導理念にはならないと思うのですが,どうでしょう。

 確かに,戦後間もない,民主的な司法の創成期であれば,まずは何よりも全国どこの地方にいても,等質なサービスが受けられるという点に大切であっただろうと思います。そして,多くの先輩諸氏がそのため非常な努力をされたことについて誇りに思います。しかし,逆にそのような「統一性や等質性を確保するいう名目のもと,司法サービスというのはこれまでほとんど向上することがなく,社会経済の進展に絶えず遅れてきたということを私たちは率直に反省すべきではないかと思うのです。例えば,中坊公平氏が指摘した「2割司法」という言葉があります。これは社会に生じる紛争のうち,司法が解決しているのは実は2割程度に過ぎず,あとはヤクザや当事者間の力関係によってアンダーグランドで処理されているという司法の役割の小ささを指摘した言葉です。司法運営の統一性や等質性というのは,その2割を統一的にかつ等質に処理していればそれでよいという論理ではないかと私は思うのです。多くの国民にとって,裁判は一生に一度あるかないかであり,そうした際に受けるサービスが他の地域とどう違っているかといったことがそれほど重要なことなのでしょうか。司法サービスの質をいう場合,利用者である国民の視点が重要なことは言うまでもありませんが,国民の多くは,実は誰が裁判官になっても結論は同じというサービスやあるいは最高裁判例によればこういう結論になっても仕方がないよと言われるようなサービスを良質と評価するのでしょうか。結局,日本の裁判所では,裁判官は2,3年おきに転勤して変わっていく「余所もの」であり,個性のない存在と利用者には映っているのではないでしょうか。それより私は,ああ,この裁判官に裁判してもらったのだから,負けても仕方がないなといえるような個性溢れる裁判官の裁判を利用者は求めているのではないかなと思っています。

 結局,ミニマムサービスの提供を目指す「司法の統一性・等質性」の概念が,いつの間にか,最大限のサービス枠を定める概念に転用され,その結果,裁判官の個性が失われ,個々の紛争の個別性や一回性が捨象されつつあるのではないかなと思います。

 研修・会同にしても,結局,司法の統一性・等質性を保つという大義名分のもと,事案処理の基準が緩やかな形で統一化され,その結果,裁判内容の画一化が図れていくのかなと感じます。しかし,それが,はたして裁判を受ける国民にとって「良好なサービス」に繋がるものなのかなと疑問に思います。裁判を受ける側にしてみれば,いくら最高裁判例によればこうですとか,同種事案で他の裁判所ではこうですと説明されたところで,それはあんたたちの都合でしょ,私にとってこの紛争は唯一であり,他の例とは比べられないものですよということになってしまうのではないでしょうか。それより,自分の事件を担当する裁判官が,人間的な悩みを見せ,真摯に自分の意見に耳を傾け,そして,裁判官としての素養・資質を発揮し,判断してくれたということの方が,「良好なサービス」ということになるのではないでしょうか。司法制度改革審議会の意見書は,21世紀の司法の役割について,「ただ一人の声であっても,真摯に語られる正義の言葉には,真剣に耳が傾けられなければならず,そのことは、我々国民一人ひとりにとって,かけがえのない人生を懸命に生きる一個の人間としての尊厳と誇りに関わる問題である」と言っています。そうすると,そうしたかけがえのない人生を懸命に生きる一顧の人間としての尊厳と誇りに向き合うためには,司法の統一性・等質性という概念はあまり適切でないように感じるのです。

 そして,まさに統一性・等質性でない点にこそ,司法は行政とは別の,重要な存在価値があるように私には思えるのです。

 特に,最近の裁判官は個性を発揮する方が少なく(日本裁判官ネットワークの方々は十分に個性的ですが・・・),またそうした無個性な裁判官を歓迎する風潮があるように思います。例えば,数年前には育児休業を取得しようとした男性判事補が,そのことを理由に退官せざるを得ない状況に追い込まれたことがありました。最近でこそ,裁判所は一般職員に対して,次世代育成プログラム「チャイルドプラン」などといって育児休業につき格別の配慮をするような計画を立てていますが,わずか数年前,法律上認められている育児休業を取得しようとしただけで,職場に居づらくなるような風潮が裁判官の世界にあったことをどのように考えているのでしょうか。また,ミスター司法行政と言われてきた矢口元長官ですら,裁判官に対する様々な人事統制について,「やり過ぎた」と反省の弁を述べ,もっと裁判官は積極果敢に最高裁判例の変更を求めて欲しいと言っているくらいですから,現場の裁判官は無個性でしかも,自己の良心より最高裁判例に従うことをよしとするようにすらなってきているのではないでしょうか。

 さらに言えば,この司法運営の統一性・等質性は,他の司法行政にも重苦しくのし掛かってきているように思います。例えば,司法改革の一環として,各地方裁判所には地方裁判所委員会という会議がもたれ,利用者である国民のニーズをくみ取る工夫がなされたとされていますが,そうした地方裁判所委員会の議事運営においては,「司法の統一性・等質性」を阻害することのないよう,格段の配慮がなされているように思います。そのような「司法の統一性・均質性の確保」は個々の裁判所職員にも強く意識されており,例えば,導入が予定されている裁判員制度の普及について,最高裁はいろいろとアイデアを出せというように言っていますが,職員から自発的に斬新なアイデアというものは出しようがないと思うのです。所詮,そうしたことは下級裁判所の判断で出来ることではないと多くの職員は思っているのです。

 私は,個性溢れる裁判官が,活き活きとその地域の人々と同じ暮らしを営みながら,その地域で生じる紛争を解決していくことの方が,将来的には司法に対する国民の信頼を高めるのではないかと思います。

 また,全国各地の裁判所がそれぞれの発想や創意工夫で様々な司法サービスを実施し,地域の人々に親しまれ,その地域で生じる紛争の解決機関としての尊敬と信頼を集めることが,司法の統一性や均一性の確保より遙かに高い価値を持っているのではないかと思います。

 京都駅から烏丸通りを歩いていく途中,東本願寺があるのですが,そのお寺の前に「バラバラでいっしょ」という標語の書いた大きな看板があります。「バラバラでいっしょ」とはなかなか味わい深い言葉だなーと思いながら眺めていたのですが,その看板の横には,小さく「個性や差異を認めあう社会をつくろう」という解説めいた文句が書いてあったように思います。

 司法の統一性・等質性と裁判官の個性,各下級裁判所の独自性の関係も,この「バラバラでいっしょ」ということにならないかなーと座談会の中で思っていました。

 つまり,さまざまな個性溢れる裁判官が(一見,バラバラ),「国民のための裁判」「少数者の人権保障」「個人の尊厳の確保」といった共通の理念を目指し,それぞれの部署で全力を尽くす(いっしょに!),あるいは,各旧裁判所がそれぞれの自発的な創意工夫により(一見,バラバラ),「司法サービスの向上」「利用者の負担軽減」といった共通の理念のもと,多種多様なサービスを提供する(いっしょに!)ということが出来れば,きっと素晴らしいのに・・・そして,そのような裁判官と一緒に仕事をしたり,あるいは裁判所職員として司法行政に携わることが出来れば,これはもう職業人生としては最高だろうなと思っています。
(平成17年2月)