● 刑事裁判で体感していること
サポーター 出口治男
 Bさんの「現場の刑事裁判官」「若手裁判官」の気質論を拝読しました。刑事弁護をやっていますと、刑事裁判官の意識は、被告人を必ず罰する、重く罰するという方向にあまりにも傾斜しすぎていることを痛感します。

 私は国選弁護を中心に年間4〜5件程度しか担当しませんが、最近はほとほと担当することに嫌気がさしています。被告人の弱さ、将来の立ち直りへの配慮等に対する口先でない思い遣り、暖かさが全く感じられません。検察官と検察官以上に検察官的な裁判官が法廷に鎮座しているのです。刑事法廷から人間味が失せ始め久しいのですが、最近のベテラン、若手を問わず刑事裁判官の人間味には絶望と嫌悪の思いを禁じ得ません。自分が「裁く」、国家の名のもとに被告人を「非難する」。その傲慢な態度が鼻について仕方がないのです。こうした意識はおそらく全国の刑事法廷に蔓延しているのではないでしょうか。

 そういう裁判官にとって、裁判員制度はおそらく体質的に受け容れられないでしょう。「キャリア裁判官としての誇り」が一般市民の法廷、裁判への闖入を体質的に許せないのでしょう。根元的な病理現象だと私は思います。既にその姿勢のなかに、市民蔑視、ふんぷんたるエリート意識、自己省察の著しい欠落をみます。今次改革では、改革審がいっている「国民の統治主体意識」の醸成とともに、この刑事裁判官達のぬき難い「市民蔑視、被告人蔑視、被告人席に立つ者に対する全能意識」が改革される必要があったのです。しかし残念なことに、今次の改革では、後者の改革が不成功に終わったか、又は先送りされました。「特例判事補制度の段階的解消」は忽然と消えています。評価制度等もスタートしましたが、判事補制度の解消に手がつけられず、しかも懇話会等に集う裁判官諸公にもその点への展望がきかれなかった、そうした状況が、刑事裁判官達の裁判員制度に対する消極的姿勢につながっているのではないでしょうか。

 とはいえ、私は今次改革のなかの裁判員制度や裁判官、裁判所に関する諸改革を、なんとしてでも市民の側にひきつけて制度内容を実現していく必要性を痛感しています。改革は、実質的にはいまから始まるという思いです。長年突き崩すことのできなかった牙城の何個所かに穴があけられたことは違いありません。それはネットに集った裁判官諸公の粘り強い闘いによるところが大であると私はみています。内と外から、互いに連携しながら、明治以来の官僚司法制を突き崩し、司法の本当の改革を図っていきたいと願っています。

 私は、個々の事件において、裁判官を批判すべきときは批判します。「人質にとられている」という意識をかなぐり捨ててやっています。せめて自分が関与した事件では裁判官は公正な地位にすわり、被告人に対して暖かい配慮を示した裁判をやってほしい、それが弁護人たる自己の責務だと思うからです。

 これ迄メールを頂き読むだけでしたが、竹崎氏が動かざるをえない程の状況になっていることを知り、私自身が刑事裁判で体感していることを重ね合わせ、刑事裁判の病理は重大であると痛感し思わず書きました。裁判員制度はなんとしてでも成功に導かねばなりません。裁判官の主導する制度でなく、真に「国民が統括主体」たりうる制度として、又被告人の人権を一層充実させる制度として構築する努力をしなければならない、そのための協力、連携を互いにしたいとの思いで始めてのメールをした次第です。
(平成17年2月)