● 「国やぶれて三部あり」 |
山田眞也(サポーター,現在弁護士,千葉県) |
もう遅すぎる反応になってしまったが、読売のあの記事は、やはり一度批判しておきたい。
わざわざニュースに取り上げられるのは異例と思われる東京地裁内部での異動を、その直前に報じた
3月27日付の記事のことである。曰く「行政敗訴」連発の東京地裁・藤山裁判長、異動に学生無年金障害者訴訟など行政側敗訴の判決を数多く言い渡してきた東京地裁の藤山雅行裁判長(50)が、4月1日付で、同地裁の行政訴訟専門部から医療訴訟集中部に異動することになった。
たしかに藤山さんの裁判は、社会の注目を浴びていたから、この異動を歓迎する人も、失望落胆する人も、ともに少なくはなかったはずで、話題になってもふしぎはないが、先日付で書くほどのことではあるまい。
それをどうして確かめたのか、いち早く報じた読売の記事は、むろん一方的な批判と決め付けられないような逃げ道は用意しているが、一般読者の読み方を前提とする限り、「この裁判官は、どこかおかしいのではないか」という印象を生むことが、充分に予想される内容である。
「藤山判決」の特徴は、行政訴訟の原告資格を緩やかに解釈するなどして原告救済の可能性を広げる一方、行政側の怠慢には厳しい態度で臨み、これまでの「裁判官の常識」を変えた点にある。不法滞在外国人に対する入管当局の強制退去処分の取り消しを命じた際には、「真摯に検討したとはうかがえず、人道に反する」と入管側を非難した。
しかし、判決の多くは、東京高裁で覆った。今年1月には、同高裁の裁判長が判決で、「事実の一部を恣意的に切り取り、裁判所の責任をおろそかにした」と異例の批判を展開した。
小田急訴訟(2審で原告逆転敗訴、上告中)の斎藤驍・原告弁護団長は、「行政訴訟改革に自らの判決で先べんをつけ、市民の共感を得ていただけに残念だ。左遷人事ではないか」と語る。
あるベテラン裁判官は「通常の人事とは思うが、あれだけ控訴審で覆され、行政訴訟専門部の権威をおとしめたのは否めない。ただ、司法が行政の裁量権に大胆に踏み込めることを他の裁判官に示した功績もある」と話している。
以上の内容を通じてみれば、藤山さんへの裁判所内部の風当たりは、きびしいということになる。
この記事を書いた人が、というよりは、読売新聞が、藤山判決のこういうところがおかしいと指摘して、正面から批判を加えるなら、そういう裁判批判は、どんどんやればいい。
しかし、読売に限らず、日本のmediaに共通する姿勢だが、誰かを叩きたいときに、必ずこういう書き方をする。あるベテラン裁判官とは、誰のことかわからないが、たとえ率直な意見表明だったとしても、新聞がこういう言葉を引用するのを許すべきではなかった。
裁判官の中には、藤山さんを尊敬し、裁判官の鑑だと思っている人がいるかも知れず、名前を出さないという条件でなら、そういう声をきくことだってできたかも知れない。
藤山さんをけなしそうな人を探して、そういう話をきくのは、むつかしいことではなかったろうと思うが、それだけにアクセントをおく記事の価値は疑わしい。
藤山判決の多くが高裁で覆されていることは事実だが、取り消した高裁判決の方が恥ずかしいと私には思える例もある。日本で生まれ、日本語で教育されたイラン人姉妹を不法残留の父母とともに強制送還することを是認した高裁判決は、姉妹はまだ若いからイランに帰っても現地の社会に適応できると述べているそうだが、これが二言目には国際貢献を唱える国のすることか。
石原都知事は、藤山さんの裁判官としての適格性に疑問を示す発言をしている。それは具体的な主張に基づいての批判だから、そういう発言を引用するのは結構が、控訴審で始終破られているのが行政訴訟専門部の権威を損なうというだけの言葉を鵜呑みにして書くのは、それが検討すれば是認できる評価だったとしても、一般読者向きの記事としてはアンフェアである。
繰り返しになるが、裁判を批判する自由はあるのが当然であり、場合によってはそれは責務でもある。
しかし、読売の書き方は、自らの責任で書くのではなく、裁判所内での風向きを伝えるという体裁で、藤山さんが批判されているという面だけを読者に印象付けたがっている意図がミエミエである。それを端的に示すのが「国やぶれて三部あり」というギャグを、そのまま引用した部分だ。
「藤山裁判長は、最高裁行政局の筆頭課長などを経て、2000年4月から現職。小田急線高架化訴訟や東京都の銀行税訴訟、課税処分取り消し訴訟などで次々に国や自治体敗訴の判決を出し、所属する民事三部の名称を取って「国破れて三部あり」とも言われた。」
「国破れて山河あり」のサンガとサンブの語呂合わせに味噌があることは、言うまでもない。私が「やぶれて」とひらがなで書くのは、「破れて」ではない、「敗れて」だろうと言いたいからだが、これが裁判所か法務省か、どちらで言い出されたにしても、思いついた人のセンスには脱帽する。むろん毒がある表現だが、毒がなければギャグではない。
しかし、これがあの記事の文脈で引用されるとなると、面白いと笑ってばかりもいられない。毒がありすぎると心配になる。
読売を批判した後で、バランスをとるために書くのではないが、朝日の裁判記事にも、私には気になる見出しがあった。首相の靖国参拝の違憲性を認めたとされる判決を報じた社会面の「傍聴席から”よし”の声」という見出しで、言い渡した裁判官の気持はわからないが、私がその裁判官の立場にあったとしたら、そんな掛け声はやめてくれと言いたくなったろうと思う。
ああいう見出しを付けるのが、朝日のいやなところだ。
私がなぜそう思うかと言うと、個人的な損害としては認められる可能性がないのに、あえて賠償請求訴訟の形で、靖国参拝の違憲性を裁判所に認めさせようという原告側の目的に、共感できないからである。私も公人としての首相の靖国参拝は、たとえそれが多くの遺族の願いであったとしても、憲法が許さない行為であり、国益にも著しく反すると思う一人だが、そういう主張を法廷で訴えるのは、個人の具体的な権利や自由が侵されたときに初めてなすべきことで、その前提がないのに、本来政治との取り組みを通じて実現すべき目的を、法廷に持ち込むのは、裁判所の使命への理解を欠いていると思う。
それなら、原告側のそういう目的を是認する形になった判決をどう思うかときかれると、いささか答えに窮する。裁判所の憲法解釈を示すことで、首相がそれを尊重することを期待し、その意味で原告の問いかけに答える責務が裁判所にあるとした裁判官は、勇気と責任感を示したと評価したい気持はあるが、理論上は憲法解釈に及ぶまでもなく原告の請求に理由がないと言わざるを得ない以上、裁判所はその結論を示すに留まるべきだというのが、今の私の考え方である。
「伝家の宝刀、伊達には抜かぬ。」気概を持ってそう言える裁判官が、大勢いると確信できたら、あの判決は勇み足だったと迷わずに言いたいところだ。
しかし、現実はむしろ、伝家の宝刀をいやでも抜かざるを得ない状況にあると思う。 君が代を歌わない教職員を摘発し、処分の対象にするという東京都教育委員会の方針は、もはや内心の自由を侵害する段階に至っている。裁判所は処分の違憲性を認められるか。伝家の宝刀は、まだ赤鰯になっていないか。
入学試験合格を取り消されたオウム真理教の教祖の娘が求めた地位保全仮処分が認められたという、当然と言えば当然すぎるニュースに、今、いささかの救いを覚える。もっとも有罪判決を得られるだけの証拠がないとされて訴追を免れた幹部クラスの元信徒までが、同様な救済を求めるとしたら、教団の犯罪を知り得なかったことが明らかにされない限り、認めてもらいたくないと思うが。
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