● 追悼 吉本隆明
「共同幻想論」に寄せて

石 塚 章 夫

 「へくそかづら国家といふは虚か実か」 角川春樹(句集「JAPAN])
 同句集の裏表紙の作者紹介欄に「平成17年3月7日、11年半にわたる法廷闘争終結。」とある。さらに「あとがき」に「愛国者である私が司法の罠によって陥れられた。その時、財産、権威、社会的地位といった形あるものを全て奪われた。・・国を愛する者が国によって不当な裁判が行なわれ、獄中の海鼠となる生活を余儀なくされた。」と書かれている。冒頭の句は、この体験に基づいた問いであることが推測される。
 「国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」(マックス・ヴェーバー「職業としての政治」)。これが、社会科学の分野での一般的な国家の定義であり、したがって、角川の問いに対する答えは(国家とは暴力行使を独占する)「実」であるということになる。
 しかし、角川は別のところで「私にとって日本政府は生涯の敵だが、私は日本をやっぱり愛している。」と書いている。この、角川が愛している「日本」が日本政府と別物であることはわかるが、では国家としての「日本国」とは同じなのか違うのか。違うとすれば、どこがなぜ違うのか。この問いに答えようとしたのが本書である。吉本は、古事記と遠野物語の二つのテキストのみを材料にして、国家とは、そこに住む人たちの共同の幻想の産物であり、その幻想は機構としての国家よりも先に存在していたと解き明かした。この「共同幻想」のひとつ前の段階に恋愛を生み出す「対幻想」(愛し合う男女が共有する観念の総体)という概念を配置したことが、「共同幻想=国家」を情緒的にとらえる契機となり、本書は七〇年代全共闘世代のバイブルともなった。この国家理解の一つの例を挙げれば、大日本帝国は「万世一系の神である天皇が統治している」という「共同幻想」の産物ということになる。帝国臣民の幻想という「虚」が、あの戦争を遂行した日本国という「実」を底辺で支えていた、否むしろその幻想そのものが戦争をしたともいえるのである。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という渡辺白泉の句は、この「虚」が「実」に転換したときの恐怖感を見事にとらえている。
 では、現在の日本国をこの「共同幻想」というツールで見るとどうなるのか。吉本に言わせると、幻想が国家を作り上げるのは民主主義的な選挙制度の有無とは無関係である。しかし、国家の「実」の部分を構成しているのは、国会と政府だけではない。警察ー裁判所ー刑務所という広い意味での司法もその重要な構成部分である。国民が裁判員としてその中に加わることは、その国民の持つ国家についての幻想内容に大きな影響を与えることだろう。「副検事われハンカチを手に対す」(T)の句の作者がもし裁判員となったとき、その思いは果たして俳句を生み出すほどの「虚」の部分を持っているだろうか。

 先にTさんの句を引用して、『「副検事われハンカチを手に対す」の作者がもし裁判員になったとき、その思いは果たして俳句を生み出すほどの「虚」の部分をもっているだろうか』と書いた。これについて、当のTさんから葉書を頂いた。「エッセーはいつも楽しみにしています。私の頭では少し難しい所もありますが・・・。合同句集一〇周年記念号の石塚さんのエッセー「俳句と社会」も又読み直しました。それでもピタッと来る程にはわからなかった。・・・』
 以下は、私のTさんへの返事である。(なお、Tさんは、母上が交通事故死し、そのことで東京地検の副検事から事情を聴取された経験があった。)
 『エッセーをよく読んでいただいてありがとうございます。確かに、末尾の部分は言葉足らずのところがありました。
 この部分を補足すると次のようになるのでしょうか。
 Tさんが対峙した「副検事」さんは、家へ帰れば普通のお父さんです。でも、検察庁の建物の中で机に座ると、「国家」そのものに変身します。そのときの「国家」は、法律による機構として合法的に出来上がっているものですが、同時に、Tさんという国民の「幻想」ー目の前にいる男が「副検事」であって一介の「お父さん」ではないという思いーに支えられています。このような思いの総体が国家全体を支えており、これが吉本のいう「共同幻想」の中身です。
 Tさんが、ハンカチという極めてささやかな「実」を頼りに「副検事」なるものと対峙したとき、その「副検事」の中に、右で述べたような幻想性(「虚」の部分)があることをTさん自身が無意識に嗅ぎ取っていたのではないかと私は思いました。ですから、「副検事・・・」の句は、このような意味での実と虚を象徴しているものだと解したわけです。
 このようなことを私が書けるのは、私自身が、この「副検事」の側に身を置いている人間で、「裁判官」という幻想の対象であると同時に「お父さん」「夫」「俳句を趣味にする人」といった個人でもあるからだと思います。私にとって「裁判官」とは、ハンカチを手に対峙するような幻想性はなく、「実」なる存在なのです。つまり、幻想の対象の側に身を置けば幻想性は消滅してしまうのです。その極限の姿を体現しているのが天皇でしょう。「日本国民の象徴」として全国民の幻想の対象となっているこの人は、自分が一介の男であるとの自覚は消え、虚実が混沌として一体となって実たる「天皇」そのものになっているのではないかと想像されます。
 Tさんが裁判員になったら、少なくとも司法の場面では、ハンカチを手に対峙するような幻想としての国家機関は消滅して国家はすべて実の存在になるのではないか、そうすると「詩」の世界も消滅してしまうのではないかというのがあの一文の最後の意味です。』
 
(平成24年4月)