平成23年3月11日金曜日午後3時前ころ霞が関の裁判所で仕事中であった。私は福岡の地震も福岡市内の宿舎で経験しているが(震度5弱程度)、それよりは強い揺れだと感じた。ゆっくりとした長い揺れが印象的だった。しかし、私たちの執務室、十数人もいるかなりの大部屋の書棚の本一つ落ちなかったので、私たちは机の下に隠れたり慌てることもなかった。その後余震が何度もきた。
おかしいのは、「震度4以上の強い地震が来」るというときには、各部屋にあるスピーカーから警報音とアナウンスが流れることになっているが、警報音が流れても揺れがこないことがある反面、警報音が流れないで突然揺れがくることがあることだった。私はどういう訳か大きな横揺れに先行する小さな揺れにもかなり敏感で、震度も比較的正確に言い当てられる。私が「又揺れている」というと他の人も「ああ本当だ」ということが多かった。後で聞くと、多くの行政官庁では、「大地震」の後外に出るようにという指導があり、日比谷公園が一杯になったというのであるが、私の所では、何の指示もなかったので、みんな夕方まで庁内で仕事をしていた。
しばらくすると、長野県方面でもかなりの大きな地震が起こったことがインターネットで報じられた。これには東北沖の大地震が内陸の断層に影響を与えて地震が起きているのではないかと懸念され、その意味の不安感も強かった(この不安を裏付けるように、その後にも静岡県でかなりの強い地震が起きた。)。
都内近県の電車は当然のことながら全面的に不通になり、ケータイも含めて電話も通じなくなった。午後5時をすぎると、宿舎が都下にあって、足に自信がある人はぼつぼつといなくなった。
地下のコンビニに行ってみると、食品の棚がかなりきれいになっており、庁内に人がだいぶ残っているのだなと思った。それでもお菓子類がまだ少しあり、カップヌードルもあった。私は室内の混乱がなかったせいか、まださほど大地震の実感がなく、チョコレートとクッキー程度を少し余分に買っただけで部屋に戻ったが、その後になって、今夜はどうなるのかな、カップヌードルでも買うべきだったかななどと不安に思い始めた。
地下のそば屋さんが開店していたので、少し遅れた夕食をとり、公衆電話がつながりやすいと聞いたので、妻に今夜は帰れそうもないと電話した。
インターネットを見ていると、都内に地震被害があったという情報はなかった。JRは早々と本日は運行しないと宣言したが、地下鉄などの電車は少しずつ動き始めた。しかし、私の通勤線は何の音沙汰もないので、今夜は部屋で寝るしかないなと覚悟を決めた。幸い、暖房も入っていたのでさほど寒くはなく、庁舎には泊まってもかまわないという雰囲気だったが、毛布の貸与など泊まり込み者支援の話は聞こえてこなかった。しかし、いすに座ったまま眠るのはどうかと思ったので、面接室のいすを3つほどつなげて寝てみた。ところが、このいすは座り心地を考えて中央が少し低く端の方が少し高くなっている。3つつなげて寝るといすの両端が当たる部分が痛いのである。コートを体に掛けてしばらくじっと目を閉じていたが、眠れそうもなかった。この辺りをみても地震に対する備えが行き届いていないことが分かる。
そこでまた起き出して、インターネットを見ると、私の電車も途中のK駅まで動くことが報じられた。千葉県の自宅までは行けないが、K駅まで車で迎えに来てもらおうと考えて妻に電話した。庁舎を出たのは11時前だったように思う。
ところが、私の地下鉄は予告通りには動かなかった。途中で「K駅では人があふれていて危険な状態です」とアナウンスがされるようになり、電車を間引くためか後から来た電車に乗り継ぎをさせられた後、ようやくK駅から2駅手前のN駅まで来ると、そこで同様のアナウンスが繰り返されて電車はかなりの間停止していた。そして、結局「本日はここで運行を終了します」と宣言されてしまった。時間はとおに丑三つ時であった。
結局N駅まで妻と娘に迎えに来てもらって、渋滞の道路をたどり家に帰り着いたのはすっかり明るくなった午前7時であった。途中歩いている人を沢山みかけたが、近所にも都内から歩いて帰った人がいることを聞いた。
このように都内近県は海浜地域の「液状化現象」による被害のほかは地震による直接被害も大きくなかったのは幸いであった。それにもかかわらず、交通や通信の混乱は大きかった。その後も、計画的停電の影響であるが、3、4日は郊外からの通勤が思うようにはいかなかった。食料品から油、水に及ぶ市民の買いだめパニックの影響も今だに大きく、「水不足」は全国に広がっているようだ。これで実被害を伴う大地震が起こったら東京はどうなるのだろうか。福岡地震の時は今度ほどの不安は感じなかった。その意味の不安が大きく残った地震体験であった。
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