簡裁判事として,急遽,民事事件を担当することになった。
その事件は,原告本人訴訟であったが,その原告本人には前任の裁判官も司法委員も相当,手を焼いていたようであった。
事件記録をみると,確かに,大変そうである。訴訟マニアというほどではないが,原告本人の書いた訴状や準備書面は,いろいろと難解な法律用語を用いているものの,基本的な概念には誤用や誤解にもとづくものも多く,そもそも契約に対する基本的な理解がおかしいように思われた。とにかく,事実関係だけでも把握しなければと思い,苦労して判然としない主張を読み解いていくと,要するに,原告は,下請業者として2年半近く,大手の建設業者から毎月,様々な内装工事を受注していたのであるが,ある日を境に,ぱったりと仕事を回してくれなくなった。それで,その大手の建設業者を相手に,業務委託契約を一方的に解除されて,損害を被ったとして,80万円の請求をしていることが理解できた。
しかしながら,業務委託契約書には,原告自身の印鑑が押捺してあるだけで,肝心の被告の名前も印もないし,そもそも,その業務委託契約書にしても,一定の業務や報酬を保証するものではなく,下請業者が他に仕事をすることを禁じるような内容でもないのである。内装工事の職人である原告は,その書面からも窺えるように,きわめて自己主張の強い人物であり,現場でのトラブルも多々あるうえ,あれやこれやと被告会社の担当者に要求すること甚だしく,それで,扱いに困った被告会社は,原告が被告会社の担当者に暴言を浴びせたことをきっかけに,原告に仕事を回さなくなったと,そういうことのようであった。
訴状では,損害額を2年余りの間に受注して得た報酬の月平均額を40万円と算出し,その他慰謝料とか,現場に行くのに使った高速道路代金やら,誤魔化されたと主張する報酬の差額とか,あれこれと積み上げて80万円の損害賠償を求めるという。
前回の弁論準備では,原告は,裁判官や司法委員の説得にも耳を貸さず,一方的に自己の主張を言い募り,被告会社の担当者を証人として呼んでくれと主張して一歩も譲らず,その証人の旅費日当を予納までしているという。被告会社の顧問弁護士も,まともな話し合いはできないという。
立ち会い書記官からそういった話を聴くにつれ,私は証人尋問の混乱を予想し,ため息が出た。
法廷の原告席に座っている人物は,迷彩色のジャンパーを羽織った,いかにも職人という感じの中年の男性で,目を怒らせ,肩で息をして,被告席の代理人弁護士をにらみ付けていた。戦闘準備完了という風情である。
私は,裁判官が交替したので,弁論を更新するという説明と,私が記録を読んで理解した,原告の請求の趣旨及び原因の要旨を簡単に説明し,原告に,間違いないかと確認してみた。原告は,当然だと言わんばかりに胸をそらし,「そうですが,それが何か」と返答する。
証人に宣誓させて,原告に,尋問上の注意をする。事実だけを聞いてほしいということや,証人と議論をしないでほしい,質問は簡単にしてほしいということである。代理人弁護士であれば,そんな必要はないが,本人の場合,証人尋問の体をなさない可能性がある。原告は,わかっている,早く尋問させろと言わんばかりの態度で,こちらの注意がまったく耳に入っていない様子だ。
案の定,尋問にならない。原告の質問の意味もよくわからないし,証人が答えるたびに,「あなたは宣誓しているのに,嘘をつくんですか!」と食ってかかる。原告が敢えて旅費日当まで負担して申請したのであるから,とりあえず,原告本人に尋問させてみようと思ったのだが,ものの5分もたたないうちに,立ち往生だ。
私は,原告に対し,ゆっくりと「あなたは,法廷での尋問に慣れておられないし,尋問したい事項は別紙で提出してもらっているので,まず,最初に,私がある程度,あなたの聴きたいことをあなたに代わって証人に聴く,不足あれば,その後,あなたが直接,聴く,こういう方法でどうでしょうか。」と申し出た。そうすると,原告は意外とすんなり「それでいいです。」とほっとしたように席に座った。
私は,予め,気になっていたことを順次,証人に尋問していったが,原告は,私の証人への追及が甘いと思うのか,原告席でぶつぶつと文句を言っている。「嘘や,嘘ばっかりや」「違う,そうじゃない」「なんや」・・・私は,その声が大きくなる都度,原告に注意していたのだが,ついに,原告は立ち上がって「俺は,こんな嘘が一番嫌いや,もう我慢できへん,嘘ばっかりつきやがって」と証人に向かって怒鳴り始めた。私は,とっさに「嘘か本当かは,私が判断します。それが裁判官の仕事です。」と制止した。原告は「あんたに何がわかるんや」と食ってかかる。私は,「なるほど,私は,神様でも仏様でもないので,すべてお見通しというわけにはいきません。だから,こうやって,いろんな人の話を聞き,書類を読んで,証拠をみて,何が本当で何が嘘かを一生懸命考えて,判断するのです。もちろん,あなたの話も聴きます。しかし,そういう裁判のしくみが気に入らないというのであれば,無理におつきあいしていただく必要はありません。野球だってサッカーだってルールというものがあるでしょう。裁判にもルールがあります。ルールに従えないのであれば,もう,帰ってもらって結構ですよ。」と言い放った。原告は,仁王立ちで,私をにらみ付けてくる。任官して間もない私にとっても,ここが正念場である。法廷の主宰者として毅然とした対応をしなければならない。法廷警備の要請などしていないから,退廷命令を出したところで空しいだけだ。「私は,あなたの話も聴いてみたいと思っています。しかし,先ほどからのあなたの様子を見ていると,大変,つらそうです。そんなに嫌な思いをされるのであれば,無理にそこに座っている必要はありません。帰ってもらって構いませんよ。あなたの話を聴けないのは残念ですが,私はこの証人に聴きたいことがまだ残っています。」法廷は静まりかえり,傍聴席の関係者や司法委員,被告代理人弁護士も固唾を呑んで成り行きを見守っている。重苦しい沈黙が続く。「どうしますか。試合を放棄しますか。」私は言葉を重ねる。「・・・・わかりました。」原告は腰を下ろした。「では,私が聴いている間,しばらくは黙っていて貰えますね。あとで,あなたにも必要があれば,聴いて貰いますし,あなたの話も聴きますから」「・・・はい。」
私の証人に対する尋問は終わったが,原告がさらに尋問することはなかった。被告代理人弁護士の尋問も2,3分で済み,証人尋問は終わった。私は,原告の請求が法的には残念ながら認められないとの充分な心証を得た。
続いて,原告本人を証人席に呼び,尋問をすることにした。私は,まず,証人席の前で原告に大きく3回深呼吸をするように指示し,その後,首を上下させたり,回させたり,軽い伸びをさせたりして,緊張を解くようにした。
そして,私は,原告が被告会社から仕事を初めて受注した時から順番に,時系列に沿って事情を聴いていった。私は,事実関係を確認しつつ,その後,必ず,「それで,あなたはどう思いましたか」「そのとき,あなたはどう感じましたか」と原告の気持ちを尋ねるようにした。原告は,大手である被告会社の業者説明会では緊張したこと,はじめて大手である被告会社から工事を貰ってうれしかったこと,遠方の現場にも朝早く行って仕事をして感謝されたこと,自分のした工事に難癖を付けられ腹が立ったこと,仕事を切られてどうしてよいかわからなくて悔しかったことなどを供述した。
原告は,最初こそ,まだ,感情を高ぶらせ,声を荒げることがあったが,私は,落ち着いて,ゆっくりと事実関係を確認し,その後,原告の気持ちを尋ねるというスタイルを貫き通した。そうすると,原告も,次第に素直に,自分の言いたいことを言えるようになっていき,時折,尋問の合間に私が挟む軽いボケと突っ込み(立ち会い書記官からは閉廷後,笑いを堪えるのが大変でしたと叱られた。)にも,笑顔で答えるようになっていったのである。
どういうわけか,私は,原告を尋問しながら,この扱いにくい原告がそれほど嫌いではない,いや,むしろ気の毒で,なんとか助けてやりたいという気持ちになっていることに気づいた。確かに,法律的に見れば,請求棄却は免れないであろう。しかし,この原告もそんなに悪い奴じゃない,いや,むしろ,ちょっと思いこみは強いが,2年半もの間,毎月一定の内装工事を受注して仕事をしてきたところからすると,根はまじめな職人気質の男なのかもしれない。逆に,被告会社は,契約書も作成せず,自分の都合の良いときだけ,この男を便利に使い,もてあますと仕事を回さなくなったということで,ちょっとずるいのではないか。そんな気持ちがしてきたのである。
原告本人の尋問を終えた後,私は,弁論を終結し,判決言渡期日を指定した。その後,駄目もとで私は,「今日は,被告の担当者にも来てもらっていますし,せっかくですから,一度,和解,話し合いによる解決をしてみたいと思うのですが・・・」と切り出した。引き継ぎメモには,和解は絶対に無理と書いてあった。
原告は,法壇の私を見上げておずおずと「あんたと,いや,裁判官と1対1で話しができるんやったら,いいけど・・・」と口ごもりながら言った。このとき,私は,おやっと思った。なんとなく,この男は私に助けを求めているんじゃないか,気持ちに変化が生じたのではないか,これなら和解ができるかもしれない!
被告代理人にも和解協議には格別,異論はなかったので,別室にまず,被告代理人を呼び入れた。年配の弁護士は,「いやー,裁判官,お疲れ様でした。しかし,見事な訴訟指揮でしたな」と私の法廷指揮・運営を誉めてくれた。また,自分の父親のような年齢の司法委員にも「お若いのに,さすがですな。」と誉められる。勿論,お世辞であろうが,これはかなり照れくさい。とはいえ,悪くない気分だ。
私は,率直に心証を開示した後,「そうはいっても,原告の気持ちもわからないではないんですよね。確かに,扱いにくい人かもしれませんけどね。まがりなりにも2年半も仕事をさせてきたんですから,終わるときにもちゃんとしないといけないと思うんですよ。たくさんの下請け業者を使っているんですから,こういうことにならないよう対策をたてておかないといけないでしょう。判決にしてもいいんですけど,彼はきっと控訴するでしょうし,また,いろいろと会社に言ってきたり,他の業者に会社の悪口を言ったりするんじゃないでしょうか。人事管理上の必要経費として,いくらか出してもらうことで解決するのがいいんじゃないでしょうか。」と被告代理人弁護士を説得した。年配の弁護士も「いや,裁判官の仰るとおりですわ。一度,会社の担当者にも私の方からも言ってみますので・・」と同調してくれる。
続いて,原告本人を呼び入れる。原告は,法廷での尊大な態度とは打ってかわって,低姿勢で「裁判官,さっきは法廷では失礼なことを申し上げてすみませんでした。」と開口一番,謝罪の言葉を口にした。私は「いやいや,そんなこと。それより,あなたは,法廷でよく頑張りましたよ。私はね,あなたが怒って帰ってしまうのではないかと内心はヒヤヒヤしていたんですけど,よく思いとどまってくれましたね。あなたの話がちゃんと最後まで聞けてよかった。」と受けた。その後,本人訴訟で,会社を相手に裁判をするのは大変ではなかったかとか,被告会社からの仕事がなくなった後,どうやって生活をしていたのかなどを聞く。
そして,私は遂に,原告に向き合い,切々と自分の考えや思いを告げた。
「法律的にみれば,残念ながら,あなたの請求はどうも認められない可能性が高いように思われます。しかし,私はあなたの気持ちもよくわかります。出来ればあなたの力になってあげたい。あなたの気持ちを相手に伝えて,会社から譲歩を引き出すようにしたい。和解ということであれば,相手が納得しているわけですから,力になれるかもしれない。ただし,和解というのは,双方が譲歩する必要があるわけで,あなたが80万円をびた一文負けられないというのであれば,話し合いの余地はなくなります。どうでしょうか。私に任せてもらえませんか。」
「あなたは,被告の会社から仕事を切られた,切られたと盛んに法廷でも言っておられましたが,実は,切られたのは仕事じゃなくて,あなたの心,職人としてのプライドだったのではありませんか。だから,あなたはこうして,裁判まで起こしたんでしょう。あなたが本当に欲しいのは,お金なんかじゃない,どうしても80万円が欲しいわけじゃない,それよりももっと大事なものがあなたの心の中にある,違いますか。」
私が,多少,思い入れを込めて放った幾つかの言葉が彼の心をつかんだようだった。私が話し終わると,彼は大きくひとつため息をつき,天井を見上げた。肩が小刻みに震えている。向き直ると,彼の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。「そこまでわかっていただいているのであれば結構です。金額については,先生にお任せします。」
彼が退室した後,司法委員が言った。「いやー,驚きましたな。彼は,この前の弁論準備の際には,80万円を1円もまけるつもりはない。もっと貰ってもいいぐらいだと言っていたのですよ。」
被告代理人弁護士と証人として出廷した被告会社の人事担当の専務を招き入れて,私は言った。「大根やにんじんじゃないんですから,人の仕事を切れば,血も涙も出ますよ。壊れたおもちゃを捨てるように,人を取り扱っちゃだめでしょう。人を使って仕事をする以上,こういうことにならないようにするには,どうしたらよいか,是非考えてみてください。今回は,いい勉強をしたという意味で,お金を出してもらえませんか。」私は,最後に重々しく,「和解の金額については,原告から一任を取り付けています。」と二人に告げた。
被告代理人弁護士が目を見張って尋ねる。「・・・・本当ですか」「はい。」
結局,被告会社が原告に対して,解決金の8万円を支払うこと,本件の和解内容については一切口外しないことで和解ができた。
私は,原告に対して,最後に次のようなことを語った。
「この8万円が多いか,少ないか,私にはわかりません。人の気持ちをお金で示すのは難しいです。1億円でも不満な人もいれば,1万円で充分という人もいるでしょう。しかし,この8万円は,あなたが一生懸命,法廷で自分の気持ちを裁判官に向かって訴えかけ,その結果,受け取ることになったお金です。法律的にみれば,あなたの言い分は通らなかったかもしれない。しかし,私は,あなたの気持ちには無理からぬところがあると思ったから,被告会社に和解するように勧めました。会社も,あなたの言い分がまったく取るに足らない,バカバカしいものであったら,お金など払わないと思いますよ。あなたの言い分にも正しいところがあると思ったから,このお金を払うことにしたのだと私は思うのです。あなたは,このことを誇りに思っていいと思います。ただし,他人にあれこれと言ってはなりません。誇りは自分の胸のうちだけにしまって,今までのことはきれいさっぱり忘れて,また,明日からお仕事に頑張ってください。わかりましたね。」
私は,自分自身に向かって語りかけていたのかもしれない。しかし,原告は,別人のように畏まって私の話に耳を傾け,相変わらずの大声で「はい。先生,何から何までご配慮いただき,どうもありがとうございました。」と言ってぺこりとお辞儀をし,何度も何度も振り返り,和解室から出て行ったのである。
私は,彼の気持ちを汲んであげることが出来たことや,被告代理人弁護士や司法委員から予想外の賞賛を得たことに満足し,彼の敗訴判決を起案せずに済んだことに感謝しつつ,裁判官室に引き上げた。私の胸の中は,小さな灯りがともったような,暖かい気持ちで満たされていた。
もともと,簡易裁判所というところは,こういうことが制度理念として予定されていたのではあるまいか。つまり,大企業や組織の力に泣く市井の人々の力になってあげられるところではなかったのか。そのため,通常の裁判官とは異なり,法曹資格のない者であっても任命資格があるのではないか。
確かに,裁判官である以上,法を無視して感情の赴くままに判決をするわけにはいかない。しかし,法律的判断は判断として,それとは別に,当事者の感情や気持ちを真摯に受け止め,一緒に泣いたり笑ったりして,当事者の納得のいく解決というものを図るのは別段,構わないであろうし,むしろ,そちらこそが本来の使命というべきではないのか。そういう意味で,事実関係を確定し,法的判断についての心証を得た後,さらに原告にそのときの気持ちや感情を話して貰ったのは,正解であった。だからこそ,被告会社の人事担当者も和解に応じる気持ちになったのであろう。
この事件は,私にとってのかけがえのない「宝物」となった。
原告である彼も裁判官である自分も,この同じ時代,同じ社会で生きる,同じ「ヒト」である。巨大な組織と向き合って,辛い思いをしたり,暗い気持ちになったりするのは,たぶん,同じであろうと思う。これから,裁判官としての職業生活を送っていくなかで,辛い気持ちや苦しい気持ちになれば,この事件のことや彼の流した涙を思い返して,頑張っていきたいと思う。
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