8月,梶田英雄元裁判官がお亡くなりになられました。高名な石松竹雄弁護士(元裁判官,司法修習2期。司法研修所教官,大阪地裁部総括判事,大阪高裁部総括判事などを歴任。刑事司法について著作が多く,「刑事裁判の空洞化」(1993年,頸草書房)等々があります。)から追悼文のご寄稿をいただきましたので,掲載します(ブログ8月31日欄から転載)。

● 梶田英雄さんの逝去を悼む
石松竹雄
 2009年8月7日梶田英雄さんが不帰の客となられました。大脳皮質基底核変性症という難病に加え、膀胱がんに罹患され、少なからぬ期間の闘病生活を続けられた後、確固とした信念に貫かれ、誠実に歩いてこられた一生を終えられました。享年75歳、現在の平均寿命からみれば、決して長命とはいえないご他界でした。哀悼の念に堪えません。謹んでご冥福をお祈りいたします。ただ、その一生は、決してはなやかではありませんが、この上なく充実したものであり、梶田さんご自身、なすべきことはなし終えたという思いを抱いて、人生を終えられたこととお察しできることが、私どもにとっても心の救いであります。
 往時茫茫としてはっきりしませんが、梶田さんが大阪地家裁に転勤されて来られたのは、昭和38年4月だと思います。その頃から、梶田さんは、高揚期の判事補会活動や青法協活動に尽力され、私は、青法協会員ではありませんでしたが、時に呼ばれて語り合っていた記憶があり、昭和40年4月私が大阪地裁から転出するころには、昵懇の間柄になっていたような気がします。その頃、梶田さんは、私が前に所属していた大阪地裁の吉益裁判長の部の右賠席裁判官となり、数々の名判決を残されました。 
 その後、梶田さんは、柳川支部勤務を経て、昭和45年4月再び大阪地家裁勤務となられました。その頃から、司法部は、宮本再任拒否事件などの諸問題に象徴される裁判官の身分保障への攻撃、司法権の独立の侵害、それに加えて、刑事裁判におけるいわゆる荒れる法廷に対する対処など、司法の危機と呼ばれる時代を迎えました。この間にあって、梶田さんは、日本国憲法の定める基本的人権を擁護し、司法権の独立を守る精神に徹し、青法協活動・裁判官懇話会活動の推進者・実践者として目覚ましい働きをしてまいりました。その結果、梶田さんは、当時の反動的司法行政当局によって甚だしく憎まれるところとなり、昭和48年4月からの佐賀地家裁の勤務を経て、津山支部、彦根支部、大津地家裁、大阪家裁、大阪高裁(陪席裁判官)という経路を辿り、司法部内に流行している俗的評価に従えば、甚だしい冷遇を受けて定年退官を迎えられました。しかし、その間、梶田さんは、少しも動揺することなく、本来の裁判事務において優れた業績を残されるとともに、与えられた条件のもとで、裁判官の組織的活動を含む裁判所の民主化のため精力的な努力を続けられました。そのいぶし銀のような業績は、必ず後輩裁判官によって受け継がれることを、私は信じて疑いません。
 また、退官後は、当番弁護士や国選弁護人の仕事を含め、刑事弁護人として被告人の権利の擁護に精力的に取り組まれました。私も2件ばかり、梶田さんを含む大勢の弁護士と共同弁護に当たりましたが、その冷静で的確な指摘は、それぞれの事件の弁護活動の進展に大きな力となったことでした。
 これまであまり意識したことはありませんでしたが、梶田さんは私と同じ九州の出身のようです。私の卒業した九州の旧制高等学校の校風は、「剛毅木訥は、仁に近し」でありました。剛毅は、必ずしも猛々しいことを意味する言葉ではありません。この句の意味は、同じく論語の中の「巧言令色は、鮮(すく)ないかな仁」と対比すれば明白であります。存命中およそ巧言令色と無縁であった梶田さんは、今浄土で、全く憂いも悔いもない心境でおられることでしょう。合掌