● 裁判員制度はうまくいくのか 
神戸大学法学研究科教授 馬場健一
 一般市民が刑事裁判に参加する裁判員制度の発足が間近に迫っている。昨年11月末には、全国の有権者から選ばれた約二九万五千人に二〇〇九年の裁判員候補者の通知が発送された。全国平均で有権者352人に一人の確率とのことだから、本エッセイをお読みの方の中にもご自身あるいはまわりに候補者に選ばれた方がおられるかもしれない。

 もちろん候補者に必ず裁判員の職務がまわってくるわけではない。裁判員裁判に付される刑事重罪事件は年間で三千件程度と見積もられており、一件あたりの裁判員の数は六名が原則だから、補充要員を含めても実際に選ばれるのは二万数千人といったところであろう。とはいえ実際の選考にあたっては、その何倍もの候補者が裁判所に呼び出されることになるので、ある年に裁判員候補者に選任されれば、正当な辞退理由がない限り、現状ではかなり高い確率で裁判所に呼ばれ、全体の一割程度は裁判員に選ばれると考えられる。裁判当事者でもない一般市民が義務としてこれだけ大量に各地の裁判所に呼び出され、また裁判官と全く同等の職務を負うことは、やはり大変なことである。

 裁判員制度の概要や導入の経緯、制度の趣旨や目的、裁判員の権限や義務、また辞退が認められる場合などについては、ここのところ頻繁にメディアで紹介されているところでもあり、ここでは、裁判員制度についてよく語られる問題点のうち、特に裁判員が一般市民であることに関する論点から二三拾い、簡単ながら考えてみたい。

 まず第一にこの制度は、国民にあまり評判がよいとはいえない。各種アンケートではいずれも、「気が進まない」といった回答が多い。例えば二〇〇六年一二月の内閣府の調査によると、「参加したい」「参加してもよい」が計二〇・八%に対して、「あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるをえない」四四・五%、「義務であっても参加したくない」三三・六%といった具合である。直近の昨年一一月のNHK調査でもほぼ同様で、「ぜひ参加したい」と「参加してもよい」が計三三%、「できれば参加したくない」が四四%、「絶対に参加したくない」が二一%で、若干参加意欲が高まっているようにも思われるが、なお三人に二人までが消極である。

 しかし新しい義務、それも重大な刑事事件に判決を出すという重い義務を課そうというのだから、これまで司法などには無縁であった一般人が忌避したいと感じるのは当然といえば当然である。むしろにもかかわらずかなりの国民が、「参加したい」とか「義務ならやむを得ない」と答えているほうが驚きであるともいえる。また参加したくない理由も、NHK調査によれば、「仕事や家事などで忙しい」といった私事を優先する理由は一一%にとどまり、むしろ多いのは「正しい判断ができるか自信がない」(五五%)とか「人を裁く責任を負担に感じる」(二六%)といった制度に対する不安のほうがずっと大きい。つまり国民の多くは、この新しい公的責務に対して「余計なこと」と反発しはねつけているのではなく、「そんな重大なことに自分などが関わって大丈夫だろうか」と感じているのである。謙虚で真面目な日本人的反応といったところであり、最近の日本人は私生活優先で公共心が失われているなどという人口に膾炙したイメージへの反証例ともいえる。NHKの調査ではまた、参加したい人の割合は若い人ほど高い(二〇代五四%、六〇代二八%など)というのも興味深い。

 このような調査から引きだされる結論は従って、「不評だから中止」などというものではなく、「参加者の不安と負担をできる限り解消する努力を払いつつ、導入を進めるべき」というものであろう。このような真摯で謙虚な一般市民の参加こそ、裁判員制度で求められているものだといっても過言ではないからである。

 ちなみに当初は気乗りのしなかった一般市民の気持ちが、実際に裁判への参加を果たしたあとは大きな充実感に変わるというのは、すでに長い市民参加の経験を持つ欧米において往々に見られる反応である。また同じことは日本でも、検察官が起訴しなかった事件について起訴すべきかどうかを一般市民が論じる検察審査会の委員たちについてもいえる。(なおこの検察審査会制度は戦後すでに長いこと運用されてきており司法への市民参加制度として定着をみている。)ちなみに筆者も講義の一環として学生に裁判傍聴を義務づけ、レポートを提出させているが、最初は負担に感じるのか気乗りしない様子であった者が、実際に裁判所を訪れ傍聴席に座ると、法廷の厳粛な雰囲気とそこで展開されるドラマに強い感銘を受けてくることが多い。講義の感想として、「法廷傍聴の経験が一番よかった」などと書かれて複雑な気持ちになることもしばしばである。

 しかしこの「不安と負担」については、制度理解の不足による根拠のないものもある一方で、制度の性格上完全には払拭しきれないものであることも率直に認めなければならない。残酷な犯罪事実について知り、被害者や遺族の悲嘆に身近に接し、被告人の有罪無罪を決定し、死刑も含めた重い刑罰を科さねばならないというのは、やはり大変なことである。特に死刑判決を出すことは、職業裁判官にとってさえ一般に大変辛い経験であり、ましてやいきなり裁判員に選ばれた者にとっての心理的負担は想像するに余りある。この点については十分なケアを考える必要があるが、民主主義体制の中、主権者国民によって死刑制度が支持されている以上、こうした重大な決定とそれに伴う苦悩は、職業裁判官だけでなく、国民代表ともいうべき立場である裁判員も共有し、その苦悩をさらに一般国民が受け止めながら、死刑制度(更に広くは犯罪と刑罰一般)についての理解と議論を深めるよすがとすべきものであろう。(なお付言しておくと、殺人事件などにおいても、裁判官が遺体の写真を実際に見ることは、その是非はともかく、あまりないとのこと。)

 職業裁判官とともに結論を出す裁判員制度においては、誤った判断が増える、という批判はあまり聞かないが、他方でよく言われるのが、素人の裁判員は裁判官に判断を一任しがちなのではないかとか、専門家である裁判官とは対等に議論できないのではないか、といった点である。先に触れたとおり、裁判員は「正しい判断ができるか自信がない」といった心理状態にあり、また日本人は権威すなわち「お上」に弱いなどともいわれる。また自分の意見をうまく言葉で伝えたり他人と冷静に議論する経験が少なく、論理性や合理性が生命である裁判実務には適さない、という批判である。

 しかし日本には戦前においてさえ陪審裁判を行った経験があり、当時の陪審員は適正に職務を果たしたと伝えられている。また先に触れた検察審査会制度が定着していることからしても、このような批判は正当なものとは思われない。多くの日本人は非論理的・非合理的であって、きちんと考えること話をすることもできない、などと果たしていえるであろうか。むしろ日本人は一般に教育水準も高く、まっとうに思考し判断する能力もあるというべきであって、要はどうしたらそうした資質を引き出していけるかをこそ、制度の側が考えるべきであろう。この点でむしろ危惧されるのは、裁判員制度を内心では歓迎していない、あるいは一般市民を見下したエリート意識の染みついた裁判官が、裁判員に対して権威的に臨んだり巧妙に誘導したりして、自分が適切だと考える結論を押しつけるような事態であろう。

 最後に、裁判員には守秘義務が課せられているからこうした問題裁判官に当たったような経験さえも一切話せない、といった誤解があるが、制度の問題点を一般的に論じることは禁じられていないどころか、裁判員制度を適正に運用するために望ましいことでさえある。また守秘義務といっても誰しも自分の職業や日常生活を通じて、人のプライバシーや安全、利益を守るためなど公言できない情報に接することは実は通常のことともいえる。

 筆者としては、現行刑事司法の改革のために導入された裁判員制度である以上、「うまくいくのか」ではなく、むしろ「どうしたらうまくいくのか」を考えたいと思う。