● ある鯉の物語 
       サポーター・弁護士(元裁判官) 宮 本  敦
1 「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉がある。川柳でいえば「孝行をしたいときには親はなし」ということになる。私はこの言葉どおりの痛切な体験をした者であるが,司法試験受験生の皆さんには,そうならないように,是非頑張ってもらいたいと思っている。
 国語辞典では「風樹の嘆」とは「親に孝行しようとした時には,既に親がなく,孝行できないという嘆き」とされ,中国の「韓詩外伝」中の「樹静かならんと欲すれども風止まず,子養わんと欲すれども親待たず」が語源とある。

2 私は大学在学中に司法試験に合格できず,中央官庁に就職した。しかし法曹の道を諦めきれず,無謀にも試験に合格してもいないのに,清水の舞台から身を躍らせる思いで,就職2年目の昭和44年12月,父母に相談もせず退職手続きを取った。それを伝えると母は涙ながらに「試験に合格するまでは家の敷居を跨ぐことは許さない。」と言った。まさしく私は勘当されたのである。
 翌年の試験には今一歩及ばなかったものの,手応えは悪くなかったので,私は今度こそと思って意気揚々と頑張って勉強していた。しかし翌昭和46年5月の試験の直前の4月に母は肝臓ガンで死んだ。更にその翌年2月には父が交通事故で即死した。私は勘当中の身で両親を失ない,両親ともにその死に目に会っていない。まさしく親不幸の天罰というものであろう。その間私は精神の集中を欠き,今一歩のところで試験を突破できず,極端な失意の日々を送っていた。そのころ童謡「ふるさと」の「志を果たしていつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと」を何度口ずさんで涙したことだろう。私はこの歌に支えられたと思っている。

3 しかし天は未だ我を見捨てずということなのであろうか。翌昭和48年5月に文字通り「地獄に仏」の如く,一人で勉強に出かけていた房総半島の,とある民宿で偶然に妻となる女性受験生に出会って交際が始まった。かくして私はやっとのことで元気を取り戻すことができることになったのである。
 その交際が始まって間もない頃のことである。彼女と二人で新宿御苑を散歩していると池を鯉が泳いでいた。私はふと思いついて彼女に,「クイズを出すよ。鯉の料理で一番おいしい料理はなーんだ。」と言うと「彼女は「鯉のアライかな一。鯉コクかな−。」などと言っていた。私が「クイズだよ。クイズ!」と言って,「ヒントを言うよ。味は甘くて初恋の味がするんだ。料理方法は何かの葉で焼くんだよ。」と言うと,彼女は暫く混乱していたが,その日の会話はそこで終わり,クイズは宿題となった。
 その次に会ったとき,彼女は嬉しそうに「クイズが解けたわよ。」と言った。
電車の中で,ふと閃いたのだそうである。答は「鯉の笹焼き」である。これは「恋の囁き」と掛け詞になっている。答に気付いたとき彼女は満員電車の中で,思わず「アッ」と声を出したと言った。彼女はこのクイズを私の「恋の告白」ではないかと思って,嬉しかったのだそうである。

4 そんなこともあって,その冬「おしどり弁護士になろう。」と彼女を口説いて私たちは婚約した。それから間もなく,私は彼女と一緒に合格したいという思いを強力なエネルギーとして,それまでの「チンタラ頑張り人間」から「猛烈頑張り人間」に大変身し,昭和50年に運よく二人で一緒に試験に合格した。合格発表の掲示板の下で,彼女は私に取りすがり,二人で泣いた。
 合格後間もなく,私は一人で帰省して父母の墓前に合格と婚約を報告した。
 合格証書を手にして私は墓の前に立ち尽くし,しばし号泣した。これこそまさしく「風樹の嘆」というべきものであろう。
 私たちは合格後半年が経過し,司法修習生になる直前に結婚した。そして司法修習が終わるころ,おしどり弁護士になろうと口説いた言葉を反古にして,再び口説き直して,夫婦で裁判官になった。

5 私は意に反して,受験中予期せぬ大きな犠牲を払ってしまった。しかしそうまでして私が求めた生甲斐とは一体何なのか。それだけの犠牲を払ってもなお私の選択は正しかったと言い切ることができるだけの生き方とは一体どのような人生なのだろうか。私は今後もこの解答を模索しながら,よい仕事をしたいと思っている。
 私は何事も諦めず,本気で頑張っておれば,夢は必ず実現できるものだという確信を抱いている。受験については思うように順調には行かなかったが,変則的ながらも受験と恋愛を両立させることができた。私は神を信じるという立場にはないが,真面目に頑張っておれば,本当に助けを必要とするときに,例えば私が妻になる女性に出会ったり,二人一緒に試験に合格したりというように,目に見えない何か大きな力が必ず助けてくれるような気がするのである。

(本稿は,日本裁判官ネットワーク通信NO1「ちょっといい話」から転載しました。)