● 事実と真実の間

裁判官(非会員,匿名希望) 

 以下の二編の「読書ノート」は私が所属しているある俳句結社の同人誌(月刊)に請われて連載したものの一部である。この俳句結社は四〇台後半から五〇台前半の主婦が主な構成員だが、国民の世論を正確に反映して大半が裁判員制度反対である。おこがましさを承知で「事実と真実の間」と題し些かの啓蒙活動をしている。


読書ノート 事実と真実の間
【その六】 渡辺淳一「愛の流刑地」
 日本経済新聞の連載小説は、紙面の最終ページに載る。他の新聞がテレビ番組欄としている紙面である。掲記の小説は目下その日経に連載中のものである。朝の通勤電車のサラリーマンを主な読者とするこの小説欄に、かって同じ作家の「失楽園」が連載されていた。バブルに浮かれる日本人男性を不倫と性愛の園で腑抜けにする「亡国小説」と酷評された。この欄に、一転して硬派の小説が登場した。高村薫の「新リア王」である。前作「晴子情歌」の続きと銘打たれていたので、私は朝日を日経に替えて読み始めた。大平、竹下など歴代総理大臣が実名で登場し、政界の裏面が抉り出される。しかし、クライマックス直前に突如連載が打ち切られた。背後に何があったのか依然謎のままである。(つい最近、新潮社から上・下二巻で刊行された。)

 その後を引き継いだのが、またしても渡辺淳一である。硬派から軟派へ。その出だしは早朝読むのが気が引けるほどの性愛場面の連続であった。ところが、性行為中にエクスタシー状態で「殺して」と叫ぶ女性の首を主人公の男性が絞め続けた挙句、その女性が窒息死してしまったことから、一転してシリアスな法廷小説に転換する。

 逮捕、勾留、起訴手続を経て検察官側の立証を終え、小説はこれから弁護側の立証に入る段階である。各手続とも専門家のアドバイスを受けているようで、極めて正確に描かれている。起訴罪名は殺人(刑法一九九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。)。他に、嘱託殺人(刑法二〇二条 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。)、傷害致死(刑法二〇五条 身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、二年以上の有期懲役に処する。)、重過失致死(刑法二一一条一項 業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以上の懲役若しくは禁錮又は五〇万円以下の罰金に処する。重大な過失によって人を死傷させた者も、同様とする。)の罪名が考えられる。

 真実の経過は読者と被告人(主人公)だけが知っている。この真実と法廷で認定される事実との間にどのような乖離があるのか、そして認定された事実はどのような罪になるのか、さらには刑はどうなるのか、刑事裁判の格好の教材である。現在、法務省と最高裁は年間一三億円の予算で裁判員制度の広報に努めているが、少なくともサラリーマンに対する宣伝効果はこの小説の足もとにも及ばないであろう。

 ちなみに、私の予想は、罪名は傷害致死(被告人には殺す意思はなかったので殺人・嘱託殺人は成立しない。首を絞めることはたとえ相手の承諾があっても暴行にあたり、その結果相手が死亡すれば傷害致死になるというのが判例の立場)、刑は懲役二年の実刑(被害者自身は完全に納得の上で死んだようだが、遺族{夫及び三人の子供}の被害感情は全く慰謝されていない)。

 なおこの小説は、右のような裁判劇とは別に、男女間における「情熱と虚無」という深淵な文学的主題を追求しているらしいことを付記しておく。
 これまでのあらすじは日経のホームページで見ることができる。
(日本経済新聞連載中)

読書ノート「事実と真実の間」
【その七】 渡辺淳一「愛の流刑地」補遺
 「その連載自体がセクハラ」との非難のある小説を二度も取り上げるのは些か気が引ける。しかし、前回の私の予想が見事に外れたことの中に、本稿のテーマである「事実と真実の間」の秘密を解く鍵があるようなので、今少しお付き合い願いたい。

 私は、検察官の立証がほぼ終了した連載途中で、判決結果を「傷害致死で懲役二年」と予想した。連載では、その後弁護側の反証について予想外の展開がないまま結審したが、判決は「殺人で懲役八年」というものであった。小説の中でも「控訴して傷害致死で争え」という意見が紹介されているから、作者(アドバイスをした法律専門家)も、「真実」が傷害致死である(被告人には殺意はない)ということは念頭にあったものと思われる。にもかかわらず作者は、裁判官に右のような判決を宣告させ、主人公の被告人は、その宣告直後に、「あなた方は何もわかっていない」と大暴れをして退廷命令を執行されてしまう。

 この「何もわかっていない」という激白は重要である。事件の本人とその話にずっと付き合ってきた読者は、細部にわたる真実を「わかっている」のである。しかし、その「真実」は、その中から、犯罪の構成要件に該当する事実(専門的には「公訴事実」という)のみを抽出し、その事実が法廷に提出される証拠だけによって認定できるか否かを判断する刑事裁判の手続きを経ると、真実とはかけ離れた「事実」に変貌する。連載終了(平成一八年一月三一日)後に振り返ると、裁判開始までに読んだストーリーをすべて忘れて法廷に提出された証拠だけに基づけば、私も小説の中の裁判長と同じような判断をしたかもしれないと思うのである。ここに、事実と真実との落差がある。裁判所の前で、マイクを持った犯罪報道のアナウンサーが「これから裁判の場で真実が明らかにされることが期待されます」と話す姿をよく目にするが、そのほとんどは期待外れに終わっている。この小説は、その理由をわかりやすく説明した。

 あと三年後に導入される裁判員制度の下では、法廷での証拠調べの時間とそこに提出される証拠の量は、今と比べて格段に少なくなる(裁判員の負担を軽くするために是非そうしなければならない)から、期待外れの度合いはますます大きくなるであろう。しかし、刑事裁判における事実認定とは、もともと生の真実を解明するものではなく、あくまで、検察官が主張する「公訴事実」が法廷に提出される証拠で認定できるか否か(その認定に合理的疑いを容れる余地がないかどうか)を判断するものなのである。

 「愛の流刑地」の作者は、少なくともそのことは大変よく理解していたというべきである。

(平成18年4月)