非行を犯した少年をほめなければならないときもある。
審判の場に来る少年たちは,普段から自分は何の取り柄のないだめな人間と思い込み,喧嘩に強いことやバイクで突っ走るとき以外に自信が持てない。裁判官から叱責されて少年院に送られることを予想している少年にとって,希望は何も見えない。更生への意欲は,未来に明るい光が見える時に芽生えるものだ。
学校で,授業を妨害し,廊下をわがもの顔で徘徊し,注意する教師には暴力を振るい,荒れ出すと手当たり次第器物を壊す中学生がいた。もう学校では手に負えない。家庭裁判所に送られてきた。鑑別所にも入れられた。審判に向けてそれなりに神妙にはなってきた。しかし,「あんなことしなければよかった」と後悔の言葉はでるが,内省というにはほど遠い。
彼の行状には,叱りつける材料は沢山あっても,ほめるべき材料は少ない。それでも,彼は全ての教師と対立しているわけではない。彼のことを少しでも理解しようとしてくれる教師には柔らかい対応も見せる。友達が他校生からいじめられていると,その学校に乗り込んで仕返しをしたこともある。
審判の場で,彼の数々の悪しき行状を確認していくと,彼は縮こまるばかりである。そんなとき,「本当は先生方とも仲良くしたかったんだね」,「友達思いなんだね」と短い言葉で彼の善意を指摘すると,もうそれだけで,彼は必死にうなずいて号泣を始める。白い目で見られ叱られてばかりいる少年にとり,こうした言葉は,暗闇に光明を見出す思いかも知れない。
わずかであっても,彼の良き面をほめてやらなくて,どうして更生の意欲をかきたてることができよう。自分にもいいところがあり,これを伸ばして悪い面を少なくしていけば更生できる,そんな気持ちにさせることが立ち直りへの第一歩である。
これまで非公開できた少年審判への被害者傍聴が議論になりかけている。 非公開の密室で少年に「甘い」処分が下されることを警戒する一部被害者の声が後押ししている。少年審判に携わる者は,その声をしっかり受け止め,自らを省みることは必要であろう。
しかしながら,少年審判の場で,被害者(あるいはその遺族)が,もしひたすら厳罰を求めて傍聴するとすれば,裁判官の少年への語りかけに影響が出ないであろうか。少年を叱り弾劾することが主となり,少年の善意指摘しほめることで更生の意欲を高めるという審判手法がとり難くなりはしないだろうか。処分も重き方向に流れないであろうか。つまるところ,少年の「健全育成」を理念とする少年審判の性格を大きく揺るがすことになりはしないだろうか。
|