● 投稿 周防正行監督への手紙
石塚章夫(元裁判官,現弁護士) 
『拝啓
 真夏の近さを思わせる日が続いております。ご健勝のことと拝察致します。

 さて、私は、去る6月23日に学士会館で行われた日本裁判官ネットワークの会合に懇親会から参加し、その席上、監督と若干のお話をさせていただいたものです。実はその折りに伺ったお話が頭に残っていて、ずっと考えていたのですが、まとまらないながらもお伝えしたいと思い、筆を執った次第です。

 それは、「あの映画では、視点はすべて当事者からのもので、客観的な第三者の視点(これが真実だと映画制作者が示唆するような視点)は一切入れていない」と話されたことです。それとの対比で、「裁判ウオッチング」の刑事裁判のビデオ(覚醒剤取締法違反の裁判のビデオ)では、冒頭に被疑者が覚醒剤を机の下に隠す場面だけが映画制作者の視点で描かれていて、その他の点が法廷の証拠調べの対象となっていることと著しく違っている、とも指摘されました。映画制作者の視点を一切入れないという点は、あの映画での徹平の最後のセリフ(「僕は初めて理解した。裁判は真実を明らかにする場所ではない。裁判は、被告人が有罪であるか、無罪であるかを集められた証拠で、取り敢えず判断する場所にすぎないのだ。」)を引き出すための大切な前提だったことが、監督のお話を伺った後もう一度シナリオを読み返して理解できました。

 実は、この徹平のセリフは、刑事訴訟における「事実」とは何かについての大きな対立に関わっています。その一つの立場は、まさに徹平のセリフどおりで、刑事裁判で争われる事実はあくまで「訴訟上の事実」であって、それを離れた「客観的事実」の解明が裁判の目的ではない、というものです。それに対するもう一つの立場(これは現在の学者・実務家の多数説でもありますが)は、法廷での立証対象は確かに「訴訟上の事実」だが、それは、究極において、訴訟の場を離れて存在する「客観的事実」にできるだけ近づくことを目的としている、というもので、「裁判は真実を明らかにする場所で」「ある」ということになります。後者の考えが多数説である理由は、刑事訴訟法第一条に「事案の真相を明らかにする」と書かれているという法律上の根拠と、もう一つ、我々は、残された痕跡によって過去に一回だけ生起した事実をありのままに認識することができるという、素朴な「常識」が根拠だと思います。しかし、この「常識」には重大な落とし穴があります。上記の「裁判ウオッチング」のビデオ制作者が冒頭の場面にいわば「神のみぞ知る客観的真実」を挿入したことが、十分に意識的になされたとは思えないのですが、このビデオは、「訴訟上の事実」と「客観的真実」との差をはからずも明らかにしています。このビデオをみて被告人の有罪・無罪を判断する者は、その他の事実については証拠の信憑性を検討するのに対して、冒頭の「机の下に何かを隠した」との事実については全く証拠によることなく、「客観的真実」として受け入れざるを得なくなっているのです。この差は極めて重大です。ところが、前記の「常識」は、法廷に提出された証拠によっても、このビデオの冒頭の場面と同様の「客観的真実」に到達できると考えているわけです。

 話が少し脇にそれますが、私は、かつて、渡辺淳一の「愛の流刑地」という小説を題材にしてこれと似たようなことを書いたことがありました。この小説は、その前半部分で、主人公が愛人との性行為中にその首を絞めその結果愛人が死んでしまう場面を作者の視点から「客観的真実」として描き、その後半部分で、それが法廷で殺人事件として裁かれる場面とその結果を証拠によって認定される「訴訟的事実」として描いています。そして、その落差の大きさにびっくりした主人公が、判決宣告の法廷で「あなた方は何もわかっていない!」と大声をあげて退廷させられてしまうのです。主人公とこの小説の読者は、作者が提供する「客観的真実」を実体験として「知っている」ので、裁判によって認定される「訴訟的事実」が「客観的真実」とかけ離れていることがわかるのですが、実際の裁判では、その区別がなされていないのです。いささか厚かましいとは思いましたが、私がある同人誌に寄せた小文を添付致しました。

 刑事裁判において冤罪が生じる一つのそして最大の原因は、裁判の場で「客観的真実」に到達できるし、到達しなければいけないという「事実観」である、と豊崎七絵九州大学助教授が「刑事訴訟における事実観」という大部の著作(日本評論社刊)で主張しています。これについて私は、いささか批判的な書評を書きました(「法律時報」2007年2月号)が、今回の監督のお話を伺って、少し考えが動いております。それがどこへ行くのか、未だ明らかではありませんが、今後この問題を考えて行く上での非常に大切なヒントを与えられたように思います。

 以上のように、未だ混沌とした状態で、お手紙を差し上げるにも熟してはおらず、論旨が不明確な点をご容赦下さい。大変お忙しい中、お目通しいただきありがとうございました。

 末筆ながら、ご健勝、ご活躍をお祈りしております。
敬具』

以上、周防監督への手紙の形を借りて、日本裁判官ネットワーク6月例会の感想を認めました。どこかで、周防監督の目に留まることを念じつつ・・・。

(平成19年8月)