● 意見交換の後半(裁判員制度を中心に)
 

弁護士G
 (録音できていなかったため発言趣旨を追完していただきました。Su&Fa からの声欄に掲載 編集担当)


弁護士H
 今の発言を聞いて,一言申し上げたくなりました。裁判は,裁判官がやるものだという意識が今の話に強かったように思います。私は,裁判を裁判らしく生き生きとするためには,弁護人の力しかないと思っています。無罪にしたいと弁護人が思えば,そのためには,自分がどういう役割を果たしていけばいいか,そこが刑事裁判の出発点です。
 
 私は,弁護士任官をして裁判官として勤めた時期もあります。少し被告人寄りの話になるかも知れませんが,お許し下さい。40年以上も法曹界にいますが,弁護士をしていた時も,裁判官をしていた時も,検察官が証拠を隠しているなと思う機会が多々ありました。弁護士のときには,こちらも,この裁判官には,この証拠は出さずに,控訴審で出した方がいいなと判断して,その通りにしたら,控訴審で無罪を勝ち取れたことがありました。素人の皆さんからみると,余りにも戦術的と思われるかも知れませんけれども,裁判所に疑問を抱かせる機会をいつの時点に選ぶかということも,弁護人は考えざるを得ないのです。

 今回の裁判員制度で,刑事司法が改革できるかどうかの重要な点の一つは,証拠開示の問題です。証拠開示について,弁護人が主導的にどこまでやれる技術を獲得できるか。もう一つは,争点整理を弁護人主導でどこまでできるか。裁判で事実を争うのは弁護人だけです。検察官は,当然,事実は存在するんだということで起訴しているんですから,検察官が争点作りに積極的な姿勢で臨むということは考えられない。そうすると,どのような争点をどのような順序で審理していくか,こうしたことを主導するのは,検察官でも裁判官でもない,弁護人ではないでしょうか。

 もう一つ,調書裁判を排除することが極めて大事です。先ほど安原判事が言われたように,そのためには,合意書面が作られなければならない。合意書面が作れないような裁判,すなわち,供述調書のような調書が証拠の中心となるような裁判では,裁判員制度は成功しない。合意書面を作成することで,供述調書を完全に証拠から排除しなければならない。本当の争点について,証人尋問と意見の応酬が裁判の中心であれば,そうした裁判についての事実認定の力は,素人と裁判官とで違いはないのです。供述調書などが証拠として出てくるから,素人は事実認定に困難を覚えるのです。その意味で,供述調書は排除しなければならない。

 裁判官になった経験から言わせていただくと,裁判官は,事実認定の力は全く劣っています。なんでかというと,社会経験が少ない,自分で証拠を捜したことがない,そんな人に適切な事実認定ができますか。

 裁判員制度を批判的に考えるよりは,今の調書裁判での不毛な現実を変えるきっかけとなり得るという視点を見出すべきではないでしょうか。国民がそれを見出そうという姿勢でなければ,裁判員制度は法曹三者だけで成功することは絶対ないのです。

裁判官(安原)
 今の刑事裁判を信用できないという時に,どこをどう変えていくか,裁判官の意識を変えるということになると思うのですが,変えると言ったって,内心のことですから,そう簡単なことではない。しかし,裁判官の主体を変えるという意味で,2年後に迫った裁判員裁判は,そうした批判に答えるものになると思う。裁判官3人,裁判員6人という構成になっているので,法律の素人である裁判員も全然ものが言えないというようなことは考えられない。そして,裁判所も今改革に向けて流動的な状態にある。裁判官内部にいる者でも,その将来像が明確というわけではない。そういう状態であるから,弁護士,検察官がこうしてほしい,あるいは世論がこうしてほしいと要望すれば,それが実現する可能性が出ている。そういう工夫をせずに,一般的に,こういう保障がないから,裁判員制度はだめなんだ,という言い方は,私は,実践的ではないと思います。むしろ,裁判員制度を自分たちの思うように作っていくという考え方をしてほしい。

 合意書面という話がでましたが,普通は,検察官が反対してなかなかこれが作れないのが実際ですよね。ところが,ある裁判所では,工夫をして,弁護人と検察官とが相談して,争いのない事実はこうですよと,捜査報告書を検察官が検事正宛に作る,それを検察官が証拠請求して,弁護人もこれに同意し,裁判所が採用する,こういう形で,実質的な合意書面を捜査報告書の形で作成した例がある。裁判所の説得により,弁護人と検察官が協力して作り挙げたものと思われます。これを作成することにより,供述調書の利用は大きく減った。これがいいかどうかは分かりませんが,様々な工夫ですよね。今はそういう工夫を考える時期であり,それが出来るチャンスです。裁判員制度は,色々な保障がないから,反対というのは間違っていると思います。

市民I
 裁判ウオッチングを十数年やってきている者ですが,私は,皆さんと違った考え方の下で,裁判員制度はやった方がいいと考えています。アメリカの陪審制度の下で,陪審員になられた方々は,終わった後,非常に充実していたと感想を述べる人が多いと言われているそうです。日本でも,裁判員制度の下では,一般市民の方が裁判に加わることになる。今のところ,重大犯罪についてだけ,裁判員裁判になるということのようですが,裁判員になられた方々が,たとえば,被告人に死刑にするかどうかの評議に加わったとする,これはとっても重要な事柄と思うのです。被害者のことを考えれば死刑の方がいいが,他方,被告人にも家族がいる,そう考えて,その裁判員は死刑にするかどうか悩むと思うのですよね。そうすると,その人は,死刑を是とするのか,否とするのか,考えるきっかけになります。日本の場合は,無期懲役刑といえども,十数年で仮出獄して社会に出てくる可能性がある。じゃ,なぜ日本もアメリカのように,懲役200年というような刑が言い渡せないのか,考えることになると思うのです。

 そういった,裁判員を経験することによって司法を深く考える人々が増えてくる。その人たちの意見を吸い上げていけば,裁判員制度はどんどんよくなっていく。検察審査会をやった経験のあるOBの方の話を聞く機会がありましたが,自分の人生にとって大変貴重な経験をしてよかった,と話していました。裁判員制度も,やってみて,そこから裁判員を経験した人々の意見を吸い上げるようにしていけば,裁判員制度がどんどん良くなっていくとともに,日本の刑事司法全体もよくなっていくと思います。私は,裁判員制度をぜひとも工夫しながらやっていった方がいいと思っています。

裁判官J
 私は,最近,ある月刊誌に,裁判員制度についての原稿を依頼されて一文を書きました。実は,私は,映画の最終場面で,最高裁の建物を背景に浮かび上がる文字がものすごく気に入っています。原稿を書いたのも,これを書きたかったからです。

 「どうか私をあなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いて下さい」

 これだと思うのです。「疑わしいは罰せす」ということはこういうことなんですね。あやしい奴を有罪にしてくれということはどういうことかと言うと,仮に,自分が間違って捕まった場合に,まあ適当なところで有罪にされることも受け入れて下さい,こういうことにならざるを得ない。そうでないと,いいとこ取りですからね。

 なんで,裁判に一般の人が参加した方がいいかということですが,もし仮に自分が被告人の立場であったときに,この程度の証拠で有罪にされてもやむを得ないと思えるかどうか,ということ。そのような想像をめぐらすことは,職業裁判官にはむつかしいように思われる,だから,市民に参加して貰った方がいい,短く言えば,私は,そういう考えです。職業裁判官は,自分が有罪の被告人になるということはまず考えたこともない,一般市民の方は,自分も間違って疑われるという立場になることは考えられる,そういう頭で,意見を言って下さる可能性が高いのではないか。そうすると,市民の方は,有罪立証が薄い場合に,有罪とするラインを,今の裁判官よりも高いところに設定していただける可能性が強いと言えると思います。

やってみないと分からないところはありますが,刑事裁判はどうあらなければならないかは,職業裁判官だけで考えるのではなくて,一般市民の方も入って貰って考えることが大事ではないと思っております。

裁判官K
 私は,今,民事裁判を担当していますが,司法試験を受けた動機は,かつて,正木ひろしという弁護士がおられて,その人が冤罪事件で活動された本を読み,感動して,刑事弁護士になって冤罪事件と闘いたいと思ったからです。それが,修習期間中に裁判所が好きになって任官してしまい,最近は,民事裁判官になっています。今の任地に来る前に,4年間支部裁判所に勤務し,刑事裁判も年間200件以上,4年間で単独事件と合議事件を合計すると合計1000件位担当しました。でも,結局,無罪は1件もありませんでした。私は,とうとう無罪率0.00パーセントです(笑)。尊敬する先輩の裁判官から「刑事裁判官の使命は無罪の発見だ」と言われ,この言葉を座右の銘にしてきたつもりですが,結局,この4年間,無罪は発見できなかった。振り返って,愕然としました。日々の忙しい毎日では,考えていなかったのですが,今になって考えてみると,争われたのに私が有罪とした事件の中に,ひょっとして冤罪があったのでないか。高裁で争われて逆転無罪となったものは1件もなかったのですが,あるいは,無実の人が控訴を諦めて有罪で確定した事件もあったんじゃないか,そういう危惧を覚えたのです。

 今回の映画はまだ見ていないのですが,本となったシナリオを読みました。伊東さんとはちょっと違う感想を持ちました。私も,あの映画のような有罪判決の結論をしたかもしれない。あの裁判官も,ある見方に捕らわれたかもしれないと思ったのです。というのは,徹平君は,就職の面接に行くのに,電車を一回降りている,履歴書を持って来たかどうか調べるために,混雑していて鞄の中を調べることが出来ないので,途中で降りて調べた。ところが,履歴書は入っていなかったけれども,また,電車に乗った。そして,その時に女性が前にいることが分かっていたのに,そのまま前向きに乗っちゃっている。あっ,これはちょっと変だな(笑),おかしいぞと思った。実は,今,痴漢事件が話題になっているので,裁判官は,電車に乗るときは,女性の側には行かない,側になったときは背中を向ける,手を上に上げる(笑),そういう風にして,痴漢と間違われないようにしている。なぜそんなときに電車を降りるんだ。また,履歴書がないことが分かったら,なぜ取りに帰らないのか,さらに,乗るときにも,前に女性がいるのに,なぜ後ろ向きにならなかったのか。裁判官は,そういう風に考えてしまう。裁判官は,自分ならどうするかと考える。そして,被告人の行動が合理的かどうかと考える。映画の裁判官には,被告人の行動は合理的でない,あやしい行動と映ったのだと思います。

 実は,その行動が合理的かどうか,映画の例だと,徹平君の行動が合理的かどうかが有罪無罪の判定に大きな意味を持つ,しかし,合理的かどうかの判断は意外とむつかしい。裁判官ならこうすると思うが,普通の人ならどうするか,別に考える必要もある。

 これまで担当した事件の中で,こういう場合,普通の人はどんな行動をとるか聞いてみたいなと考えるときが何回かあった。裁判員制度では,こうした普通の市民が自分らの考え方を持ち寄って議論することになる。こういう点で,私は,市民の合理的感覚が生かされることになる裁判員制度に期待しています。

 その裁判員制度が成功するかどうかは,弁護人と検察官が対等であることが前提になります。そのためには,二つの問題点がある。一つは,検察官が手持ち証拠をどれだけ弁護人に開示するか,前面開示に近い運用がなされなければならない。もう一つは,取調べの可視化の問題です。これらの条件が満たされることで,弁護人と検察官が対等となります。

 裁判員制度は,裁判員が参加してくることによって裁判官自身も変わってくることになる。一つの例を挙げると,刑事裁判では,合理的疑いを入れない程度に立証されないと無罪だという原則がある。裁判官は,そのことを頭の中では分かっているが,実際は,有罪慣れしてしまっている。しかし,裁判員制度の下では,裁判官は,毎回毎回,評議が始まる前に「合理的疑いが残れば無罪ですよ」と裁判員たちに説明しなければならない。なのに,その評議の時に,有罪慣れしている裁判官が,有罪方向でむやみに裁判員を説得しようとすると,裁判員から「先ほどの話は何だったのか」(爆笑)と不信に思われてしまう。裁判官自身も,自分の説明と有罪慣れした思考との間でジレンマを感じてしまう。そういう意味でも,裁判員制度は,刑事裁判官の意識を変えることになると思います。

裁判官L
 K裁判官に,私の言いたいことをほとんど話されてしまい,その後に話はしにくいですが,実は,映画はまだ見ていません。主人公の名前が私の息子と同じなものですから,見る気になれないのです(笑)。冗談ですが。

 私は,今,裁判所支部に勤務していますが,私のところでは,裁判員裁判はやりません。本庁で全部やることになります。それでも,今,本庁の裁判官と協力して,忙しい仕事の合間に,裁判員制度のPRを必死でやっております。現場の刑事裁判官は,何としてもこれを成功させてやり遂げようと,そういう気持ちで準備,PRに取り組んでいます。裁判官は,官僚ですが,やると決まったら,一生懸命取り組むという非常に生真面目なところがあり,そういう気持ちで取り組んでいることを信頼してほしいと思います。

 映画のシナリオを読みますと,あの事件については,私も,伊東さんと同じように,普通のまともな考え方の裁判官は,これは無罪にすると思うのですが,少数派なのでしょうか。

 この会場には,元裁判官で弁護士をされている方々がかなりおられます。現職裁判官についてあれこれ批判されますけど,こういう裁判ができないような弁護活動を弁護人としてしっかりやってほしいな(笑)と思います。

 被疑者国選弁護人制度が拡大されることになります。被疑者段階の弁護人が,起訴前に活動する場面が多くなります。起訴するに相応しくない事件を被疑者弁護の段階で解決する意味は大きいのです。ここにおられる弁護士先生方も,被疑者弁護の方でもがんばって頂きたいと思います。

市民M
 私は,当番弁護士を支援する会に参加して活動をしています。先日,赤レンガ祭りという催しがありました。法務省の赤レンガの建物で行われたのです。検察庁の人が中心でやられた模擬裁判があり,私は,それを傍聴しました。それがかなり面白かった。危険運転致死罪となるか業務上過失傷害罪になるかが争点となる裁判でしたが,その中で被害者遺族の意見陳述があった。その26歳の女性は,涙ながらに訴えている。私の夫が如何にやさしかったか,私の病気のために夜中に薬を買いに出て事故にあった,私が止めればよかった,私のために死なせてしまったというようなことを訴える。画面に映った裁判員の女性の3人はハンカチを出して涙を拭いている。模擬裁判なのに,ここで泣いていいのかなと思いながら見ていると,検察官の求刑は懲役8年でした。評議の場面で,8,9割の人が懲役9年以上でした。裁判官はびっくりしていました。これは危ないなと感じました。検察庁は,どういうつもりでこの模擬裁判を作ったのかと思いました。

 私は,個人的に民事裁判の当事者となる経験がありました。その中で感じたことは,弁護士は裁判官に対してものすごく頭が低く,なぜこんなに遠慮しなければならないのと思うくらいです。私の相手の弁護士がそうでした。裁判官によい印象を与えたいからなのでしょうが,私の依頼した弁護士は,そうでもない,これではよい印象を与えられないな(笑)と思いました。それはいいんですけど,裁判官と対等でない弁護士が沢山いるんだなと思いました。私がやってきた当番弁護士や裁判員制度の市民運動で見てきた弁護士とは違う弁護士がいるんだなと考えさせられました。

 裁判員制度については,すごく問題があるなとは思っています。それでも,司法改革の流れの中で,ここに行き着いたのですから,この流れを良い流れにしていかなければならない。どんな運動に関わっていても,最初は元気一杯にやっていても,内容が分かってくると,がっかりしてもうやめたと言いたくなる。しかし,裁判員制度は,初めての制度で,私たちの勝利だったのです。これを放っておく訳にはいきません。立場にある人は,知恵を絞り,工夫をこらして,どんな問題があろうとも,問題があるからやらないのではなくて,克服していくという方向で,裁判員制度は進んで欲しいと思っています。

周防監督(裁判員制度に対する期待と不安を質問されて)
 期待の方は,裁判官が裁判員を説得する形になったとしても,説得しようとする以上,使う言葉は,今までご自身が使ってきた言葉とは違う,一般の人に分かる言葉で話さなければならなくなる。裁判を、法律用語やその法理論を全く知らない人に通じる言葉と論理で語らなければならなくなる。それが裁判官の意識を微妙に変えるはずだ,言葉にはそれだけの力がある,という楽観的な思いがあります。しかし,さきほど安原さんがおっしゃったことと関係していると思うのですが,僕が不安に思っているのは,裁判員制度そのものではなくて,最高裁や法務省が,裁判員制度をどう捉え,どう運用しようとしているかという点です。市民の率直な意見を裁判に反映させたいと考えているようにはとうてい思えない。逆に,今やっている刑事裁判は,こんな風にきちんとやられていますという広報の場にして,裁判に対する市民のお墨付きを貰う,という方向に行っているのではないか。

 最近読んで,大変面白かった本があります。一つは,弁護士の伊藤和子さんの「誤判を生まない裁判員制度への課題―アメリカ刑事司法改革からの提言」,もう一つは,同じく弁護士の五十嵐二葉さんの「説示なしでは裁判員制度は成功しない 」

 前者の本は,アメリカにおける刑事司法の改革がテーマで,その中に誤判原因の検証が書かれてある。陪審制度が冤罪を生む温床になっているのかという点を検証をしている。その中で,冤罪の原因は,素人にまかせているからこういうことになるという陪審員の問題ではなくて,目撃証言の誤りが一番大きいとしています。結果、その改革の一つとして、目撃証人に「犯人」を面通しするやり方は,全員横並びにして見せるという今までのやり方を更に進化させて,面通しの際には,そこに立ち会う刑事は,その事件を担当した刑事ではなく,まったくその事件と関係のない,つまりその事件の被疑者が誰であるかを知らない刑事が立ち会う。被疑者が誰かが分かっている人が面通しに立ち会うと,目撃者に何らかの示唆を与えてしまう可能性が大きいからです。さらに,横並びにして,この中にあなたが目撃した犯人はいるかと訊くと、比較して誰が一番似ているかと選んでしまうので,順番に一人づつ面通しする方法を採用する。

 また,ニューヨーク州では,陪審員になりたくない人が多いので,陪審員への参加率を高めるためにどうするかという改革が行われているそうです。面白いことに,陪審員の資格に制限をしない,職業によって区別をしない,日本と違って,裁判官や弁護士であっても,市民として陪審員に選ばれる可能性があるとしています。陪審義務の免除職種がないのです。

 日本の裁判員制度の制度設計は,現行の裁判であってもきちんと行われている,それをより良いものにする,そういう視点で色々な決め事をしている。なおかつ,一般の人に参加していただくのだから,裁判を早く終わらせなければならない,そのために,公判前整理手続で,争点を整理し,証人を決め,証拠を決め,その後に,裁判員に参加して頂きましょう。評議をする場合に,そこに参加する裁判官は,公判前整理手続であらゆることを知っており,なおかつ,法律的知識も豊富です。そういう人と裁判員が本当に対等に評議できるでしょうか。疑うべきようなシステムがどんどん出来ている,ここを不安に思っています。
 僕は,日本でも,いつか陪審制度が生まれることを願っているし,これまで勉強した中では,特に,先に挙げた二冊の本に影響され過ぎているのかも知れませんが,無罪を争うには,陪審制の下で裁判をするのが,一番いいのかなと思っています。

 僕は,裁判所が本当に市民の声を裁判に反映させたい,そのためには,どうしたらいいかという観点から制度設計がなされることを願っています。今のところ,そういった観点からの制度設計のようには見えないので,それが一番の不安です。

裁判官N
 今,民事の裁判を中心にしております。最初は,刑事裁判をやりたいなと思っていました。任官当初は,高名な裁判長の下で,無罪判決を出したり,勾留請求でも,競って却下するということをやっていました。

 ところが,実際は,刑事裁判は,有罪が確実な人ばかりが起訴されてくる。そのうちに,否認する被告人に対しても,自分はだまされないぞというような意識になってくる。そうすると,本当に争いがある民事裁判の方が面白くなってくる。今,そういう中で,刑事裁判を一生懸命やっている人は偉いと思っています。

 刑事裁判をやっている人は,もっと思い切った判断をしてもいいのではないかと考えています。周防監督の紹介された伊藤さんの本でも,被害者と被告人の供述が対立し,しかも,それらしか証拠がない場合には,無罪にするという法則が,イギリスやアメリカでは行われていると書かれています。日本にはそういう法則はない,日本では,裁判官が思い切ってそういう判断をすべきだと思う。

 民事裁判では,たとえば,保証した事実を認めるかどうかの場面で,立替払をした会社が保証人に対して,保証人となる意思の有無を電話で確認したかどうかが争点となることが以前よくあった。そういうときに,誰が電話をとったとらないとか,メモがあるないなどを巡り,事実認定の基礎的な議論をしていたことがあった。しかし,そういう水掛け論になるような事件では,保証をしたという認定をしたらいかんのや,ということになり,それが民事の事実認定の暗黙のルールのようなものになった。

 そういうことからいうと,痴漢事件のよう場合は,殺人事件などと違った軽い事件ですから,被害者の女性の方には申し訳ないけど,映画のような場合には,あなたの証言だけじゃだめなんですよ。次は掴んだ手を絶対離さないとようにして下さいよ,と要求してもおかしくはないと思うのです。あるいは,有罪になることがこれだけ不名誉なことになるのですから,遮蔽措置をとってまで証言させることはどうなのか,被告人の前で,堂々と「あなたが犯人です」と証言できなければ,有罪にできない,そういう勇気ある判断を裁判官がしていかないと,痴漢冤罪はなくならないのではないかと思います。

 刑事裁判を担当していないのに,勝手なことを言っているようですが,もし,私が,定年まで残り少ない任期中に刑事裁判をやることができれば,そういう裁判をやりたいと思っています。そういう刑事裁判をやれる時期がくるかどうかわかりません。もし,刑事裁判をやれないということになっても,「それでもボクは裁判官をやめない」(笑)

裁判官(安原)
 周防監督の疑問にお答えしたいと思います。一応,私も,所長ですから,当局側ということで(笑)。たしかに,外から見えにくい動きですし,実際も不安定な要素があることは確かです。私の見るところ,最高裁の中枢部は,市民との協同を真剣に実現したいと考えている。そのためには,従来の裁判官の意識を変えなければならない,古い刑事裁判官ではだめだ,つねに市民事件を扱っている民事裁判官とか,若い裁判官を抜擢して配置したりしている。しかし,そうした中枢の考えを支える力はあまり強くない,浮き上がり兼ねない心配もある。官僚裁判官ですから,上から裁判員制度に備えよといわれれば,一応従いはする,しかし,内面では,今までの刑事裁判は悪くはなかった,何でそんなに急に変えるのかという抵抗感を持つ刑事裁判官も少なくない。非常に不安定な状態にあると思う。只,弁護士や検察官あるいは世論が強く要請したら,裁判所はやらざるを得ない,裁判官の意識も変えざるを得ないという期待を持っている。

 評議のあり方について,評議シートという工夫もある。カナダのある州の裁判所では,評議に先立ち,陪審員に説示するに当たり,事案の内容,争点をかなり詳細に書かれた書類を渡しているそうです。それを評議シートと呼んでいるのですが,これを作るのには,検察官,弁護人の同意が必要とされている。検察官,弁護人が一生懸命争点にそって立証したのに,最後の評議の場面でブラックボックスになるという事態を防ぐためですね。こういうものがなければ,弁護士は不安でやっていられないですよね。日本でも,そういう工夫をどんどん要請していく,そういうことをやっていれば,日本の裁判員制度もよくなって行くと思うのです。

裁判官O
 私は,支部で裁判官をしております。裁判員制度については,法曹三者にもあまり明確な展望がないのではないかと思っています。裁判所は,官僚組織なので,表向きは制度推進をしていますが,本音は,やる気がなく,この制度は無茶な制度だ,自分たちがやってきたものは間違いないと思っている人が結構いる。この制度に賛成して指導するような人は少ない。そのような人は,みんな所長になってしまって,この制度を支える現場は手薄になっている。検察庁は,5年はこの制度につきあうつもりでいる。しかし,5年後にはつぶれるだろうと見ている。5年経過した成果があまりにもひどいのでやめるだろうと思っている。それまではがんばるけれども,国民の制度として根づかせようとは思っていない。弁護士会はどうかというと,司法改革ということでつき合ってやっている。しかし,刑事弁護は,元々ボランティアとしてやっている。プロ中のプロはほどんどいない。裁判員制度というかなり負担となる制度となったときに,これに付き合える人がいるかというと,あまりいない。お金もかかる。まともにやれる人はいないので,面と向かって反対はしませんが,賛成している人どれくらいいるんでしょうかね。刑事をやっていた前任地では,その地の弁護士さんは刑事弁護に熱心だった。その有能な弁護士さんたちと何回か話す機会があったのですが,裁判員制度に大反対なのです。なぜ反対するかというと,こんな無茶な制度で弁護人活動ができると思わない,そういうシステムができていない,というのです。今が一番良い機会だから,制度設計を変えても,やった方がいいですよ,と私は言いたくなるのですが,他方では無理だなとも感じています。これから裁判員制度に突入しますけど,多分不思議な状態で推移し,最後は裁判所の責任になるのではないかと思っています。

弁護士(高見)
 今のご発言ですが,前任地の弁護士さんたちの意見は今は違っていると思うのです。確かに,裁判員裁判が万々歳ではないということはよく分かっているし,証拠開示も不十分だということはよく分かっているけれども,もう始まってしまう以上は,これをどう風にしてちゃんとやって行くかということを,少なくとも大阪は考えてやっています。残念ながら,痴漢の事件は,裁判員裁判の対象事件ではないですけど,裁判員裁判が始まれば,間違いなく,そういう事件についても,市民の方と評議をするというレベルで裁判官の意識というのはずっと変わると思う。そういう意味で,先ほど述べられたK裁判官の意見に賛成です。安原さんがおっしゃるように,評議の仕方次第だと思うのです。そこには,検察官も弁護人も入っていけないのです。法曹三者で模擬裁判もやっていますが,評議の仕方もオープンにしてやっている。現在は,2年位前までの評議の仕方とは大分違ってきている。2年位前までは,司法研修所の教室のように,事実認定はこういうものなのですよ,殺意というのはこういうものなんですよ,と言うように裁判官が一方的に教えるようなものだった。しかし,最近は,裁判官も,工夫してはって,裁判官は先に意見を言わないとか,裁判員同士で意見の交換ができるようにしたりしている。確かに,裁判官の個性にもよりますが,先ほどの評議シートのような厳密な合議の枠作りまでできるかどうかは不安ではあるのですが,一番大事なのは,弁護士がしっかりしなければならない。先ほどMさんが言ったように,弁護士の中には,お上にへつらうというか,何となく頭をペコペコしている人が多くて,僕もそうかも知れないのですが,それだったら,裁判員制度はきっとうまく行かないと思います。たとえば,今の公判前整理手続の中で,証拠開示をどれだけ出来るようにがんばれるかということです。弁護士会として,そうした努力が十分かと言えば,まだ足りないところはあると思いますが,そういう方向で一生懸命考えている弁護士も多いということは理解して頂きたいと思います。僕は,裁判員裁判が始まれば,今の刑事裁判よりは絶対によくなる,悪くなるはずがない。映画の事件でも,裁判員裁判で評議をやれば,きっと無罪になると思うのですよ。そういった意味で,裁判員制度には期待しています。

市民P
 裁判に市民の声を反映させるということは,実は大変危険ではないかと思われてならないのです。現在,被害者の方の裁判を見る目が,復讐の場であるかのようです。特に殺人事件あたりの遺族は,裁判において殺された人の敵をうつんだという気分が非常に強い。一般のマスコミ論調も,そういった論調でこれを支援する空気が蔓延している。そうした中で,裁判員制度になったとき,裁判員が本当に適正な量刑が下されるかどうか,非常な疑問を持つわけです。私は,司法の場は,絶対に民主主義であってはいけない,多数決であってはいけないと思うのです。行政,立法の場が民主主義はいいのですが,司法は違う。戦後のアメリカ映画の「12人の怒れる男」に感銘を受けたのですが,陪審員のほとんどが極刑を望んでいる,その中で,一人だけが反対して,結局ひっくり返すわけですが,ここでは民主主義ではない,多数決ではなかった。司法の場は多数決ではなく,本当に人権の尊厳を守るという場でなければらない。そういうことが,裁判員制度で果たして実現できるかどうか,疑問に思っているのですが,そういう疑問にも答えられるようなものにしていただければ有り難いと思っています。

市民Q
 最近の報道によれば,裁判員を選定する際に,裁判員候補者に対して,「死刑制度は賛成ですか」とか「今の警察の捜査について信頼性をおいていますか」,そのような質問をぶつけることが可能であるような情報があります。そのようなことがなされると,それに答えた一定の人が裁判員から選ばれずに排除されることになる。その点がどうなっているのか,どなたかアドバイスしていただければと思います。

弁護士(高見)
 私の聞いたところでは,ある時期に,最高裁はそういう考えをもっていたけれども,その後,死刑制度の賛否は質問してはいけないことになったと聞いています。また,警察の捜査に対する信頼云々の質問があるというのは聞いたことがありません。正確な情報というものではありませんが。

弁護士R
 私の得ている情報では,自白の信用性が争われ,警察官証人が予定されている事案では,法務省サイドとしては,警察捜査に対する信頼の点を候補者に聞きたいと思っているようです。落としどころとしては「警察の捜査について特に不信を抱いていますか」というように,普通の人なら,手を挙げないような質問にする,日弁連としては,その程度の質問ならいいのではないかという意見のようですが,議論の詳細は分かりません。

 ちなみに,アメリカでは,その辺はばんばん聞いています。私は,サンフランシスコの法廷に行きまして,模擬で陪審候補者席に着きました。裁判官からの「警察官は嘘をつくことがあると思いますか」という質問に,私は「イエス」と答えました(笑),本当にそう思っていますので。次に,「警察官は,法廷で嘘をつくと思いますか」と質問されたので,それも確信犯的に「イエス」と答えるたら,すぐに「お帰り下さい」と言われました(爆笑)

 

(以上)