● 冒頭発言その3
周防正行(映画「それでもボクはやってない」監督)
 周防です。よろしくお願いします。こんなに緊張して何かの会合に出るということはありません。只,事前にA先生がいらっしゃるということを聞いて,どんなつるし上げにあっても,A先生がいらっしゃれば安心だという気持ちで出てきました(笑)。でも,こういうネットワークをやっている裁判官は,僕がイメージした裁判官の人達とは違うという感じがしました。最初の厳しい伊東さんの発言からでも,こんなに柔らかいと思って(爆笑)。本当は,もっと厳しい人達と対決する方が面白いのかなと思ったりしました。つまらないことを言って,すみません。

 まず,この映画を作ったいきさつですが,もう4年半前になりましたが,僕が裁判に興味を持つきっかけとなった事件がありました。1審の東京地裁で有罪となり,2審の東京高裁で無罪となった痴漢事件で,その逆転無罪が朝日新聞に取り上げられ,それを読んで沢山のことに驚きました。起訴された事件の99.9パーセントが有罪になるということ,もっとも,最近読んだ本では,実は,有罪率はこれ以上に高いということです。本当の意味で,つまり私は犯人ではないと無罪を争っている事件について,無罪となるのは,5,6年前で0.06パーセントだというんですね。これには驚きました。弁護人は,検察官の有罪立証を崩せばいいはずですが,実際には無罪であるという証拠を捜し,無罪を立証しなければならない。なぜなら,多くの弁護士は,裁判官が無罪の確信を持ってくれなければ無罪判決を書いてくれないと思っている。「疑わしきは被告人の利益に」ではなくて,「疑わしきは有罪」だというのが,現状の裁判に対する弁護士の認識だと思います。どうやら裁判官が無罪を書くときは,無罪の確信が必要らしい,ということを僕も取材を通じて感じました。有罪の確信がないからといって無罪を書くということは,実はあまりないのではないか。ただ、短い期間ではありますが,裁判について勉強をし,その上で僕が改めて思うのは,検察官の有罪立証に疑いを生じる場合は,やはり無罪としなければならないはずだということです。無罪を英語で言うと「ノット ギルティ」なんですね。この意味は大きい。「有罪ではない」,これが無罪の意味なんですね。だけど,日本の無罪というのは,「正真正銘の無罪」でなければならない。多くの人がそう思っている節がある。だから裁判官も無罪の確信を求める。結果,こんなに無罪の数が少ない。無罪の確信を裁判官が持つように,弁護人が立証することなんて,本当に大変なことです。いわゆる「悪魔の証明」ですよね。やってないことの証明。その新聞記事だけで,そこまでの結論にたどり着いたわけではないのですが,その時は,どうも,無罪を争うということは,僕が考えている以上に大変なことらしいという印象でした。

 さきほど,伊東さんがおっしゃっていたように,僕の映画というのは,どちらかというと,がんばる人達が何かを成し遂げて,最後はよかったね,と終わるものだったのです。実は,この新聞記事を見たとき,これまで,警察とも検察とも,もちろん裁判とも縁のなかった一般の人が,無実の罪で裁判を受ける羽目になり,どうやって,無罪を勝ち取って行ったのかに関心をもったのです。その記事には,彼1人の力だけではなく,その奥さんや学生時代の友人など色々な人がサポートしていたと出ている。優秀な弁護人がつくことも,もちろん重要ですけど,実は,日々の彼の活動,気持ちをサポートしていく多くの人の力が,裁判を闘う上で,重要なことだったのです。そういった裁判と全く無縁だった一般市民が,どうやって闘っていったか,それはきっと感動的な話だろう,そう思って取材を始めたのです。

 只,彼の話は実際感動的で,本(「お父さんはやってない」太田出版)も出ていますし,読んでいただければよく分かっていただけると思うのですが,そんな感動的な話を生ませてしまう裁判制度の方に問題があるのではないか(笑)というのが,僕が取材をした時の正直な気持ちです。これでは,無実の罪で裁判を受けたけど、みんなで一生懸命闘って無罪になってよかったね,という映画だけは絶対に作れません。

 司法の専門家の方にとっては,この映画に対する不満もあるとは思います。只,僕が外から一生懸命裁判を見て,色々な本を読み,色々な人から話も聞き,少なくはありましたが,現役裁判官からの話も聞き,検察官のお話も聞き,とはいえ、それ以上に多くの弁護士さんの話も聞いていますので,いくらか弁護士寄りだろうと言われる可能性もありますが,でも,少なくとも,法廷のあの柵のこちら,傍聴席側から見える裁判というものは,こう見えるのです。残念ながら,僕は,裁判官がその執務室の中でどんな話をし、何をしているかは実際には知りません。警察の取調室の中,あるいは検察官がどんなことをやっているのかも自分では見ていない,伝聞でしかない。それでも,柵のこっちから見ていると,裁判官はこう見えるし,検察官もこんな感じなのです。それが僕の映画なのです。はたして,こんな風に裁判が見えてしまっていいのか。

 僕が,色々な本で勉強し始めたときに知って驚いたのですが,最高裁は「公平らしさ」を大事にしているという。しかし,最高裁は,実際「公平らしく」しているだろうか。たとえば,判事と検事が人事の上で交流する判検交流に関連してですが,まもなく3月の人事異動で検察官に戻る裁判官に、無罪判決が書けるだろうか,たとえその裁判官は,公平に判断して有罪としたとしても,疑わしさが残ります。だって,あの裁判官は,これから検察庁に戻る人ではないか,裁かれる側から見ると,そんな人に無罪なんて書けないだろうと思うのが普通でしょう。とうてい「公平らしく」は見えません。判検交流のあり方ももう少し慎重に考えた方がいいのではないか。

 まとまりなく話しましたが,あの新聞記事をきっかけに日本の裁判を取材してみたら,普通に生きてきた人間として驚くことが一杯あった,それは,真剣に裁判を見ようとしなければ分からないことなので,僕は映画にしてできるだけ多くの人に,日本で一番公平なところとして信頼されている裁判所がこんな風に見えるのですよ,と伝えたかったということです。