● 冒頭発言その2
弁護士・高見秀一(大阪弁護士会)
 弁護士の高見と申します。今日は呼んで頂いてありがとうございます。たまたまですが,最近,一審の有罪判決が二審の大阪高裁でひっくり返り無罪となって,それが確定するという事件があり,私は,それに控訴審段階から弁護人としてついていたのです。その話もちょっとしたいと思いますが,伊東さんがおっしゃっていた一審で有罪となったが二審で無罪となった事件を検証するということは大変いいことで,賛成です。

 只,伊東さんは,あの映画の事件で日本の裁判官のほとんどが無罪を書くとおっしゃいましたが,とんでもないことです(笑),冗談ではない。日本の裁判所はそんな裁判所ではない。ここに来ておられる人はそうではないと思いますが。日本の刑事裁判官に必要とされるものは何かと言えば,有罪を書く起案力だと思うんですよ。有罪を書く証拠は,つまみ食いをすれば,いくらでもあると思うのです。でも,それをするかどうかが大問題なわけです。被害者がつかんだ犯人の手が1回離れた,それでも有罪とするかどうかですが,実は,私のやった今回高裁で無罪となった事件は,被告人の前にいた女性が痴漢被害にあった。被害にあったことは間違いないと思うのですが,一審の判決は,自分のお尻を触っている犯人の手を,利き手でもない左手で捕まえようとしたが,捕まえきれずに追いかけた,でて掴んだ,これが被告人の手で,犯人とされた。一審の判決は「被害者は,痴漢の犯人の手が,速くもなくゆっくりでもなく遠ざかっていったので,一瞬たりとも離れず追いかけることができた」と言っているんです。でも,痴漢はね。自分が痴漢とばれたと分かったら,手をパッと引っ込めると思うんです(笑)。当たり前ではないですか。でも,この理屈は通じなかったんですよ。合議体の事件で,僕の尊敬する裁判長が担当されていたんですが。

 映画では,「10人の真犯人を逃すとも,一人の無辜を罰することなかれ」という言葉が出ていますよね。日本の裁判官は逆だと思うのです。「1人の有実の人でも逃さないためには,10人の無辜の人を罰することになっても仕方がない」と。ちょっと言い過ぎだと思いますが,少なくとも,絶対に被告人には騙されないと思ってやっているのが,日本の裁判官だと思うんです。二審では,一審の判決でいう,ずっと追いかけて離れなかったというのは,到底信じられないというのです。本当に当たり前の認定をして無罪にしてくれました。

 僕は,起訴する検事が副検事だという点が非常に問題だと思うのです。検察庁は,被害者がやられたと言っている以上,起訴しないわけにはいかない,後は裁判所がどう認定するかだ,と思っているといるのではないか。なのに,裁判所は,起訴された以上,有罪としなければならないと思っている。変な話,起訴している副検事は,もしかして,この事件は間違っているかも知れないと思っている。そうでない副検事もいるかもしれませんが。

 一審で担当した別の痴漢事件(迷惑防止条例事件)で,弁論要旨を書いていた際に,検察官の論告要旨を読んでいて偶然に知ったことですが,別の事件(強制わいせつ事件)で別の検察官が書いた論告内容と同じ内容,一言一句変わらない文章が6,7割なんですよ,何を言いたいかというと,検察官も,ワンパターンの決まり文句を並べているだけなんです。「被害者の証言は,具体的かつ詳細,実際に体験した者でないと言えない迫真性がある」。痴漢にあっているんであれば当たり前ですよね。また「弁護人の詳細な反対尋問にも動揺せず」あるいは「根幹部分において変遷はしていない」,「証言は,分からないことは分からないと述べ,曖昧なことは曖昧として述べ,真摯である」。弁護人が反対尋問で突っ込んで曖昧になったことを「曖昧なことは曖昧なこと認めている」と言って逆に証言の信用性のプラス材料にしている。むちゃくちゃだと思うのです。これに対して,被告人の供述については,ちょっとした供述の変遷をあげつらう。一番おかしいと思ったことは,痴漢と間違われた人がすぐに「やってない」と叫ばないで駅員室に行ったという行動を「本当にやっていないなら,やっていないと叫ばなかったことが信じられない」などと書いている。検察官のそうした無茶な論理を,裁判官がまた判決の際そのまま有罪理由の中で是認している。

 無実の人を無罪にできないことは,弁護人として本当に無力を感じてしまいます。裁判官は,無実の人が処罰されることがあってはならなはずなのに,それをやっておられないのではないかと思っております。