私は,刑事裁判を主に裁判官生活37年になります。私は「しこふんじゃった」以来の周防監督のファンです。もちろん「シャルウィダンス」も楽しませて頂きました。しかし,今回は,いわば「社会派映画」でして,それも,こともあろうか,私の仕事がテーマで,しかも厳しい批判を含んでいるということで,いささか緊張した思いで鑑賞しました。映画は,おそらく後で沢山意見が出されるでしょうが,裁判の危うさ,問題性を大変リアルに鋭くついておりまして,私自身,考えさせられ,反省させられる点が多々ありました。特に,有罪無罪の事実認定の在り方,保釈運用の在り方,捜査の在り方については,深刻な疑問提起がされています。
只,私も現場の刑事裁判官の1人であります。プロとしての意地もあります。映画による批判に対して,反発とまでは行かないにしても,いくつかの点でいささか受け入れがたいとの思いを抱いたことも事実であります。 まず,最初の疑問は,映画では,室山裁判官は,有罪の結論を出しましたが,果たして,日本の大方の刑事裁判官は,同じような結論をだすだろうかという点であります。
あの映画の証拠関係を見ますと,被害女性の高校生の証言がほぼ決定的な証拠でありますが,その証言内容自体に,小さくない欠陥があります。すなわち,掴んだとされる犯人の手を一端離しているという点です。犯人の手と被告人徹平の手が同じだとする点に疑問を入れる余地がなかったか,誤認の可能性がなかったかという点です。その他に,近くにいた女性の「徹平は犯人ではない」とするかの如き証言もあり,検証結果も一定の疑問を投げかけています。そして,何よりも,徹平自身が,捜査段階から一貫して否認しております。これだけの疑問がそろえば,普通の裁判官でも,疑わしきは被告人に利益にという観点から,無罪を言い渡すのではないかと感じます。あの映画の警察官らさえ,有罪となるか疑問としていたくらいですから,有罪認定した室山裁判官は,現場では,少数派ではないかと思います。
さらに疑問は,映画のあの誤判くさい裁判は,日本の裁判だけではなく,どんな国の裁判にでも,ありうる裁判そのものの宿命を表していないかという点です。
あの映画の中で,もし,徹平が警察官や検察官の厳しい取調べに屈して,自白していたとします。公判では,もちろん否認するとしても,その捜査段階の自白調書が証拠として出てくる,こうしたケースがむしろ,日本の裁判では通常であります。その自白の信用性をも判断しなければならないので,裁判官にとって,一層むつかしい判断を迫られることになります。 しかし,今回の映画は,徹平のがんばりによって,自白はしませんでした。したがって,重要証拠は,被害者証言がほとんど唯一のものとなりました。証言の信用性を判断するということは大変むつかしいことです。映画のようなケースの被害証言で考えてみますと,何人もの目撃がある場合とか,徹平の指に被害女性の下着の繊維と同一の繊維片が付着していたというような裏付けがある場合とか,あるいは,被害女性が自分を触っている犯人の手を掴み,その手を最後まで離さなかった場合などでは,証言の信用性は決定的に高まります。逆に,証言が極めて曖昧で自信のないものであるとか,フラフラして一貫性がないとか,明確な虚偽が一部に見られるといった場合には,その証言は信用できないということになりかねない。しかし,映画では,あの被害証言の信用性を裏付ける決定的な証拠もなく,また,逆に,被害証言が到底信用できないとするだけの強力な反証もありませんでした。こうした場合,職業裁判官にとっても,あるいは陪審制度の下での陪審員にしても,判断は大変困難になり,誰もが同じ結論に到達するというわけにはいかないと思います。
西洋の歴史では,有罪判定をするためには,たとえば,二人以上の目撃者がいなければならないなど一定の種類の証拠がそろわなければならないとされた時期があったとされています。法定証拠主義と呼んでいます。しかし,現代では,わが国を含め大部分の国で,法廷証拠主義は廃れ,代わって,自由心証主義が登場することになる。証拠を制限はしない,特に違法な証拠でなければどんな証拠でもいい,これに基づく裁判官の自由な心証によって有罪無罪を決するとする制度ができ,今日に繋がっています。あの映画は,その自由心証主義の下での判断の難しさ,危うさを示したものと言えます。被害証言が信用できるかどうかは,裁判官の自由な判断に委ねられているからです。
そうした自由心証主義の危うさから,人権を守る策として主張されているのが「疑わしきは被告人に有利に」というルールであります。このルールは自由心証主義による暴走を,裁判官の内面でチェックするための大切な原則といえましょう。しかし,この「疑わしきは」の制約ルールがあるとはいえ,どの場合を「疑わしい」とみるのかが,これまた難しいことです。客観的なルールはありません。これまでは,裁判官による経験による積み重ねでしかなかったのであります。室山裁判官は,あの被害証言を疑わしいとはみなかった,一方,私は,誤認の可能性があって疑わしいと思いました。裁判官によって,判断の異なることがあるのです。
こうした自由心証主義による裁判の危うさをどうすれば改善発展することができるか。興味深い提案があります。つい先ほどまで,新潟家裁の所長をされており,現在は弁護士をされている石塚章夫元判事が,光藤景皎先生古希記念祝賀論文集に「失敗学としての誤判研究」という論文を書いておられます。
彼は,誤判をいかに少なくしていくかとの問題意識の下に,まず,これまでの学者,弁護士,検察官,裁判官らの研究成果を総括します。これによると,誤判原因は,大きく分けて二つあるとして,まず一つの,主として捜査官側の原因を挙げ,虚偽自白が生まれかねない点,共犯者の虚偽自白を見抜けない危険性,捜査官による証拠のねつ造,隠蔽等を指摘します。もう一つの誤判原因として,職業裁判官の側の原因を挙げます。予断と偏見,「疑わしきは被告人に有利に」の原則をないがしろにする必罰傾向,捜査官特に検察官との一体感,鑑定の誤りを見破れない専門知識の不足などを指摘します。
石塚さんは,畑村洋太郎氏の「失敗学のすすめ」という本で提唱されている方法論,すなわち,失敗から学ぶという在り方を取り入れられないかと考えます。特に,判断主体すなわち裁判官の側にある失敗すなわち誤判の原因を具体的に解明することが不可欠ではないかと問います。そのためには,まず,失敗すなわち誤判の意義を正確にする必要があります。石塚さんは,下級審で有罪判決をしたが,上級審で複数の裁判官により逆転無罪とされて確定した事案について,有罪とした下級審の判断を失敗,すなわち誤判とすべきだとしています。
考えてみれば,有罪か無罪かどちらかという点,真実は被告人自身か神様しか分かりません。あの映画でも,撤平君が犯人ではないとは必ずしも明確には前提としていないように思われます。その意味で,室山裁判官の判決は,間違っていなかった可能性もあります。しかし,あの判決が,上級審で覆させられ,無罪が確定した場合,室山裁判官の有罪判断を失敗と定義しようと石塚さんは言うのです。その上で,そうした失敗をした裁判官の失敗原因,特にその主観的側面を聞き出し,記録化して,後の裁判官に伝えていく研鑽資料とすべきだというのです。
失敗の主観的側面としては,私自身の失敗経験からすると,事件や被告人に対する予断,偏見,証拠評価の一面的思いこみ等があろうかと思います。そうした原因事項を具体的生々しく,率直赤裸々に明らかにしておく,また,そうした良心の告白を司法行政の上で保障する制度設計をする,特に,失敗を告白した内容を人事評価の資料にしないことが重要だとします。こうした失敗事例の裁判官による良心の告白を集積することが,将来にわたって誤判を少なくしていく一助ではないかと,石塚さんは提唱しているのです。私は,大変興味深い意見だと思います。
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