● 自白と刑事司法について考える(5)
伊東武是(神戸地裁姫路支部)  
1 深夜,路上強盗殺人事件が起きた。悲鳴を聞いた通行人は倒れている被害者の近くから走り去る男を目撃した。犯人らしい。だが,背格好とメガネをかけていたということしか分からない。そのほかの若干の手がかりを下に捜査が鋭意進められ,被疑者が逮捕された。只,これら客観的に収集された証拠を総合しても,まだ,被疑者を犯人と断定することはできない。

 このような事件の場合,捜査官は,被疑者に対して厳しい取調べを行い,自白を得ようとする。最初否定していた被疑者が,何日か後あるいは1,2週間後に自白を始めることがある。逆に,どんなに責めてもついに自白は得られず,捜査官も無罪心証に終わる場合もあるであろう。そして,自白した事件の中に,冤罪が含まれる可能性が残るのである。


2 アメリカでは,何日間も拘束して被疑者に対して自白追求することは重大な人権侵害であって,許されないという法的・社会的コンセンサスがあり,日本のような長期の取調べ形式による自白追求は許されない。かの地では,捜査官の収集した客観的証拠によって被疑者はひとまず起訴されるが,引き続いて,被告人・弁護人と検察官との間で司法取引が行われる。

 殺人のような重罪の場合,証拠が十分で陪審裁判(トライアル)となっても十分有罪が得られるという場合は,検察官は強気で当然厳しい刑を巡って司法取引となる。反対に,証拠が足りず陪審裁判では有罪が得られるか疑問の場合には,弁護人が強気に出て軽い刑を巡って交渉が重ねられるのであろう。交渉がまとまれば,有罪答弁により陪審裁判なしの簡単な手続で有罪が宣告され,取り引きされた通りの刑が言い渡されて裁判は終わる。司法取引が成立しない場合,トライアルに移行するものと,訴追の無期限延期(デッド・ドケット)で終結するものがあるという。

 訴追の無期限延期は,後に新たな有力証拠でも出てこない限り,事実上無罪と同じ効果があるのであろう。現実は,トライアルに移行する事件の数より,無期限延期される事件の数の方が圧倒的に多いという。検察官は,有罪獲得に相当自信のある場合(有力な客観的証拠がある)でなければ,トライアルには持ち込まないからである。取調べによる自白追求のできないアメリカの刑事手続とこれが許されている日本の場合との決定的な違いといえる。


3 日本では,客観的証拠は乏しくとも,自白追求をし,これが獲得できれば起訴をする。しかし,被告人が公判廷で,その自白は過酷な取調べで無理矢理言わされた虚偽のものであると訴える場合が少なくない。その審理は困難なものとなる

 このような日本的否認事件の裁判では,これまで,職業裁判官は,被告人の捜査段階の膨大な自白調書(一直線の自白であればまだいい。往々にして,さまざまに供述の訂正や撤回のジグザグな変遷を経ている。その量も,時には10通を超え,合計すれば100枚,200枚を超えるものも少なくない)をじっくり読み込み,眼光紙背に徹し,供述の変遷に注目しつつ,客観的証拠と照合し,微妙なニュアンスを読みとり,他方で,被告人の公判の弁解と対比する。こうした精密な検討を経て,捜査段階の自白の信用性に確信を抱き,あるいは,信用性に疑問を抱く心証形成をするのである。日本的否認事件の審理の典型である。


4 裁判員制度のもとでは,裁判員がこのような膨大な自白調書を読み込んで検討するという方法は不可能に近い。捜査官の自白追求が依然として続くなら,裁判の上での日本的否認事件は今後ともなくならない。これまでの職業的裁判官による裁判手法に変わって,一体どのような方法が考えられるのであろうか。

 自白過程を透明なものにして,その信用性判断を容易にしようとする取調べの可視化主張は,この難問に解決を与えようとする一つの具体的提案ではある。


5 裁判員制度は,捜査という下部構造をひとまずおいて,裁判という上部構造の改革を先行的に進めた面がある。その上部構造(裁判員裁判)の具体的設計の必要に至ったとき,自白追求を基本とする捜査手法(下部構造)との矛盾軋轢が大きな難問として浮かび上がってきているのである。
(平成17年1月)