● 自白と刑事司法について考える(4)
伊東 武是(神戸地裁姫路支部)  
 さて,以前にも触れたように,自白の果たす役割の重要な一つに,当該犯罪の真相を解明することにより被害者あるいはその遺族の感情を幾らか和らげ,社会全体に対しても一定の安堵感,解決感を抱かせる点がある。犯罪の真相解明の中心を占めるのは,何といっても,被疑者が語る犯行に至る動機を含めた詳細な自白である。自白を追求することができなくなると真相解明もできなくなる。果たしてそれでよいのか,との意見も根強い。

 この論点も一筋縄ではなく,多方面から解きほぐしていかなければならない。ひとつこういうことは言えないだろうか。

 問題は,罪を認めたくない否認する被疑者,被告人の場合である。その被疑者に対して,自白がなくても,他の客観的証拠を総合して有罪判決が可能ならば,まずそれを先行させる。その後に,つまり,判決が確定して,その犯罪者が受刑生活に入ってから,矯正機関のしかるべき担当者が時間をかけて,じっくり当該受刑者の罪に対する反省を引き出すとともに,事案の真相を語らせることだってできるはずである。その告白如何をその人の処遇成績の評価に入れてもいいのではないか。また,その告白を(本人の同意を得て)被害者や遺族に知らせ,あるいは社会に公表することも十分に可能である。

 何も,公判あるいは判決までの短い期間に拙速的に真相解明を急がなくなくてもいいのではないか。被害者ないし遺族の悲しみは深く長いのだ。すべての面での早急な「事案解明」を求めているとは必ずしも思えない。社会全体も,動機やいきさつなどに一部不明な点が残っているとしても,被告人に有罪が宣告され,刑が言い渡されれば,それなりの安堵感,解決感はあるのではないか。他方,被告人の自白がない,あるいは不十分な場合,その裁判の量刑は決して被告人に有利とはならない。かえって,「反省の態度」がないのであるから,寛刑を言い渡される「心配」はないといっていい。自白のない場合の判決に対するその面からの懸念は無用であろう。

 わが国では,刑事裁判過程そのものが,被告人に対する教育を兼ねているといわれる。「教育的司法」である。そこでは,取調べ自体にも教育的役割が担わされている。その教育の中心として,自白を引き出す過程が重視されてきた。しかしながら,罪を犯した者への教育の中心は,本来,刑務所などの矯正機関が担うべきはずである(判決に向けての自白は,寛刑を期待しての薄っぺらなものになる傾向さえある)。矯正機関に人材を集め,受刑者の更生のために本格的な取り組みがなされることは,高度文明社会において,国民の安全な生活を保障する重要な課題の一つである。裁判と矯正との役割分担である。裁判は有罪無罪と量刑を決める場,矯正機関は罪の償いをさせるとともに更生教育をする場。そうした位置づけで考えるならば,裁判の過程で,自白が得られないことの懸念の一つは解消できるといえないだろうか。自白獲得に向けられてきた警察の多大な熱意とエネルギーは,自白以外の客観的証拠の綿密な収集と他事件の犯罪の検挙,解明に向けられることになるのである。

 誤解のないように繰り返す。取調べにおいて,進んで自らの罪を語る被疑者の自白を軽視するものではない。それはそれとして貴重な証拠であるし,量刑上の重要な資料にもなろう。私は,自白したくない被疑者に対して,追及的な取調べにより「自白」させることの問題点と必要性の観点から,わが刑事司法において,こうした実務の比重を大幅に減らすことができないものかを考えていきたいのである。

 長年の伝統に支えられている「実務」に立ち向かういささか「ドンキホーテ」的試みであるかもしれない。
(平成16年11月)