● 自白と刑事司法について考える(3)
伊東 武是(神戸地裁姫路支部) 
 裁判員制度の実施を見据え,裁判員にも分かりやすい裁判に向けての様々な論議が交わされている。

 その一つが,捜査段階でなされた自白の信用性等の判断のために,取調べ状況の録音ないし録画化の提言がある(「可視化」提言)。被疑者が自らの罪を「白状」した自白調書があったとしても,それが取調室という密室でのやりとりの結果である限り,無理矢理言わされた虚偽の自白である,と抗弁されると,その自白の証拠価値はとたんに怪しくなる。その自白が信用できるかどうかを判断する上で,取調状況がどんな様子であったかを知る必要がある。しかし,それを調べようにも,証人は,当該当事者である取調官と被疑者の二人しかいないのだ。二人の言い分はまっ向から食い違う。被疑者は,怒鳴られ,こづかれ,椅子を蹴られ,壁に向かって立たされたなど過酷な取調べの有様を訴える。これに対して,取調官は,そのような取調べはしていない,たまに大声を出すことはあっても暴行などとんでもない,諄々と説得していると,被疑者は,突然に椅子から立ち上がって土下座し「嘘を言ってすみませんでした」と謝罪した上,涙ながらに自分の罪を語り始めたなどと証言する。裁判官は,どちらを信じていいか迷う。

 そんなとき,取調べ状況を終始録音しあるいは録画しておけば,このような水掛け論から「危ない」結論を引き出す懸念がなくなる。その自白を信用していいかどうか,素人にも分かりやすい。裁判員制度には是非必要だというのが,取調状況の録音・録画化を提言する論者の考えである。

 わがネットワークの仲戸川判事が取調べ録画化の導入の必要性を訴え,名コピーを作った。「動く証拠が動かぬ証拠」

 これに対して,捜査官側の反対は極めて強い。理由は沢山挙げられるが,反対論の本音は,終始録音ないし録画されるような状況では自白がとれなくなるという危機感にあると思われる。頑なに心を閉ざしている被疑者から自白を求めようとする「追及的」場面が常に録音や録画で監視されたのでは,取調官は萎縮してしまい,被疑者の心底に迫る迫力ある取調べは到底できなくなり,ひいては,被疑者の心の扉を開かせることが不可能となる,というのであろう。

 私は,可視化の実現に希望を抱く一人であるが,これを実務に定着させるためには,捜査官側の不安感を少しでも和らげる必要があると考える。自白獲得を至上命題とする現在の捜査実務の中で,その自白獲得が困難となることが目に見えている「改革」に捜査官が抵抗を覚えるのもそれなりに理解はできる(自白追求が正しい捜査の在り方かどうかは別にして)。そうであれば,自白が証拠の中心であるとする現在の捜査実務を変化させ,自白の価値が捜査全体の中で閉める比重が下がり,自白がなくても大丈夫との安心の機運が捜査官側に生まれることが,この可視化問題の解決にも繋がることは明らかである。