● 自白と刑事司法について考える(1)
伊東 武是 (神戸地裁姫路支部) 

1 自白証拠の有用性
 私ども刑事裁判官が日々担当する大部分の事件はいわゆる自白事件である。自白事件では,被告人は,自らが犯した行為を認めて有罪であることを争わず,法廷でも一貫してその態度を貫き,もっぱら量刑の寛大なることを求める。

 その場合,法廷の審理は量刑をめぐっての攻防が中心になり(もちろん,有罪を立証する検察官からの一連の証拠書類を取調べはするが),寛大な刑を希望する被告人質問や情状証人(被告人の親,配偶者など)が調べられ,示談書が提出され,逆に,被害感情の大きいことを訴える被害者やその遺族の証人調べなどが行われるだけである。

 自白事件では,有罪無罪を決める判断は容易である。自白が虚偽ではないかという疑いがない以上,法廷審理は簡明なものになる。このことは洋の東西を問わない。アメリカでも,罪状認否(アレインメント)の手続で有罪答弁(「私は有罪です」,いわば自白)がなされると,陪審法廷による有罪無罪の審理,すなわち沢山の証人尋問等を省略して,量刑判断に移行する。法廷審理は簡潔なものとなる。

 自白は「証拠の王」と言われる。確かに,

 たとえ密室での殺人であろうとも,被疑者の自白によって,死体を埋めた場所が初めて発覚するなどし,一連の事件経過が一気に解明される場合もある。そこでは通常,動機告白も伴う。(真実解明の側面)

 その自白が法廷審理を簡潔,迅速なものにし,訴訟経済上で大きな意味を持つ。(訴訟経済の側面)。

 さらには,自白する犯罪者は,反省悔悟を伴う場合が多いだけに,立ち直りの意欲を生みやすく,その更生の契機ともなる。(更生促進の側面)

 被害者や遺族はもとより社会全体としても,自白による解決をみると,被害感情がいくらか癒され,一件落着に落ち着きを取り戻すこともある。(被害回復・社会的安心の 側面)


2 自白証拠の危うさ

 しかしながら,上記のような自白のメリットは,被疑者が任意に進んで自らの罪を告白し供述した場合に得られるものである。

 その自白が,当初否認していたのに,捜査官による長くて厳しい取調べの末にようやく獲得されたものである場合,意味合いは相当に異なってくる。

 後の公判法廷で,その自白は無理矢理言わされたものであって真実ではない,と争われる場合が結構多い。そうすると,その審理は,否認事件となって,一気に複雑困難になり,真実解明のために他の証拠を詳細に吟味する必要が生じ,訴訟経済上のメリットはなくなる。取調べ過程に不服をもつ被告人に自白による更生促進の期待はもてない。被害回復や社会的安心にも時間がかかる。

 人の供述という証拠は,指紋や足跡痕といった物証と比較して,元々正確性,安定性に劣るものである。記憶違いや意図的偽証を考えれば明らかである。指紋は嘘をつかない。人の供述の中でも,特に被疑者の供述は,正確性,安定性の面で一層問題の多い証拠である。真犯人である被疑者は,自らの刑責を免れたいと考えて,罪を免れあるいは軽減するための意図的な虚偽供述をする可能性がある。逆に,真犯人でない被疑者が「自白」する場合もある。歴史的には拷問を思い起こせば容易に想像できよう。取調べの苦しみから逃れるための虚偽自白がある。取調べの過酷さは過去のものではなく現在も続く。このように,被疑者の供述は,それが自白であろうと,逆に無実を訴える供述であろうと,利害関係のない第三者の目撃供述とは質が異なる。もちろん,第三者も記憶違いから間違いを述べることはあるが,意図して虚偽を言う場合はまれである。被疑者の場合は,特に取調べに対して供述するとき,意図してかあるいはやむを得ずかは別として,自分の記憶に反する虚偽の供述をすることが少なくないのである。

 被告人が法廷で有罪であることを争ういわゆる否認事件のかなりの部分は,捜査段階では自白している。わが国の裁判史上で明らかとなった冤罪事件の大部分は,その捜査段階の自白が結局は信用できないと判断されたものなのである。法廷は,その自白の信用性をめぐって延々と証拠調べを重ね,取調室という密室内で行われた捜査官と被疑者の攻防の「真実」に迫ろうとし,その「自白」の真実性の有無を解明しようと並々ならぬ精力を注ぐのである。


3 自白追求を必要としない刑事司法

 5年後には裁判員制度が始まる。その制度を成功させるために解決すべき課題は山積みであり,これまでの伝統的な刑事訴訟運営を根本から見直さなければならない点も多い。
 長年わが国の刑事司法に根付いてきた「自白を中心にした刑事司法」についても,その見直しの時期に来ているように思われる。自白証拠の見直しの必要と対策について概観すれば,次の諸点になろうか。

 第1に,素人である裁判員に,あの長大な調書類を読んで貰って判断を求めることは無理である。ましてや,前後に微妙なニュアンスの違いのある自白調書を読み込んでそれなりに理解し,これと公判の否認供述とをさらに対比して,はたしてどの供述が信用できるのかという判断(従前の裁判官による判断の方法)はもはや不可能に近い。これまで,刑事裁判官がやってきた自白調書に向き合ってきた姿勢方法は裁判員制度では通用しなくなる。

 第2に,これは,むしろ捜査機関において,認識してきたところと思われるが,わが国民の意識も変わり,お上を畏れ敬う意識から,お上の前にでれば大抵のことは自白するという傾向は薄れてきている。犯罪者であっても,自らの罪について,これを容易には自白しない人が増え,自白を「獲得」することが困難になりつつあると聞く。刑事法廷の現場でも,捜査段階から否認のまま貫く被告人も増えてきていることを実感する。そのような被疑者から自白を獲得しようとしても,その「追求」の手段方法は限られてきており,無理はできない。自白に依拠する捜査には限界が見え始めている。

 第3に,これまでの刑事司法においては,自白が中心的役割を果たしてきたとはいえるが,実際に見てみると,多くの事件において,実は,自白がなくても有罪を認定できるのである。例えば,被害者や目撃者のいる犯罪,被告人に結び付く物証(指紋等)を現場に残した犯罪などがあり,覚せい剤を密室で使用した犯罪でも,その人の尿から覚せい剤反応が検出されれば,まず覚せい剤使用については疑いを入れにくい。そのような自白がなくても有罪認定ができる犯罪種類を考え,その立証方法の再検討を図るとともに,これまで自白がなければ,有罪立証ができないとされてきた犯罪は,どのような種類のものか,自白追求に替わる方法はないものか考えていく必要がある。

 第4に,わが刑事司法が自白を必要としたきた理由の一つとして,故意など主観的要素の認定を必要としていることが挙げられる。たとえば,殺人罪と傷害致死罪を分かつ分水嶺は「殺す気持ち」があったかどうかである。殺人罪として立件したい捜査官は,必死に「殺す気持ち」があったことを被疑者から言わそうとする。被疑者は,激情していて頭が真っ白で,どんな気持ちだったか思い出そうにも思い出せない。それでも,捜査官はしつこく追求する。どこかおかしくないか。自白追求の必要性に刑法の構成要件の問題があるとすれば,そうした点の刑法の改正も視野に入れるべきであろう。

 第5に,これまで,わが国の国民感情として,犯罪に対しては,その細部についてまで解明しつくすことを期待しており,そのためには,捜査官において,被疑者を「厳しく追及」することをよしとし,自白を獲得することを強く期待したきた。一定の犯罪が行われて,犯人が誰であるというだけではなく,その自白によって犯罪の経過や動機をもこと細かに解明することを求めてきた,といわれる。犯罪の客観的側面,しかも概括的な立証で,はたして国民世論は納得するだろうかという反論がある。これについても考えてみなければならない。

 自ら進んで罪を告白する自白には何も問題はない。どこの国でも,そのような自白を刑事司法に利用している。被疑者が捜査に協力したこと,そして,反省の態度のあることを理由に刑の軽減を図ってよい。

 只,自白にどんなメリットがあろうとも,言いたくない人の口を無理矢理割らせ,また,筋書きと違った供述をする人を責め抜いて,捜査官の思い通りの「自白」を得ようとするのは,やはり野蛮である。えん罪の危険性もある。かつての後ろ手に縛った上での「石抱き」の拷問と,20日間の勾留期間中硬軟織り交ぜた執ような「説得」により自白を獲得しようとするわが国の現在の捜査方法との間に,はたしてどれほどの「文明」の進化があるといえるのだろう。自白追求をしなくてもよい刑事司法は実現できないものであろうか。

(つづく)