平澤雄二判事の自死(平成15年3月3日)について,遺族からの公務上災害の申請に対し,最高裁判所は,平成17年5月30日,公務上の災害ではないと認定した。認定理由について法的観点からの意見を述べることは控えたい。只,いわば当事者に近い立場から,まことに残念な認定と感じている。
私には,かつて大阪高等裁判所で平澤君の同僚として過ごした時期がある。同君の隣の部に所属し,約1年間身近に接していたのである。それまでにも,関西のいくつかの職場で,親しくというほどではなかったが,顔を合わせるたびに言葉を交わしてもきた。大学の同じサークルの後輩でもあることも分かり,特に親しみを感じていた。同君の率直な物言いは,人柄の明るさと大らかさを示すものと思い,うらやましく感じていたこともある。せっかく1年間,仕事場が隣になりながら,公私の忙しさにかまけ,ゆっくり話をしたり酒を酌み交わすこともなく過ごしてしまった。私が,今の職場に転出して約1年後に,彼の自死という訃報を新聞紙上で知った。「どうして?」という驚きとともに,そこまで思い悩んでいた彼から,身近にいてその気持ちが少しでも分かる立場にありながら,ついに愚痴の一つも聞いてやれなかった,それが悔やまれてならない。
仕事の重圧が彼を精神的に追いつめていたことは明らかである。高裁の裁判官は,特に忙しく,神経をすり減らす。彼のいた時期は,事件数も急増していた。誰もが必死になった係属事件の「処理」に忙殺されていた。記録を読み,判決を書く,高裁裁判官の仕事はそれにほぼ尽きると言ってよいが,人によりその仕事のスタイルは違ってくる。年齢や刑事事件担当の経験年数などが適応力を左右する。部内や周囲の人間関係も重要である。神経の細やかさ繊細さという人格部分も含め,様々な条件の中で,仕事の重圧は彼の受容限度を大きく超え,「心」を痛めつけたのであろう。仕事を離れた彼は,家庭ではよき夫であり父であった。彼を精神的に追いつめる他の要素は何もなかった。
責任の重圧に耐えながら日々多数の事件に取り組んでいる多くの裁判官にとって,今回の公務外認定は,どのように感じられるのであろうか。いつわが身に起こっても不思議でないと思うのは,私だけであろうか。
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