● キャリア裁判官への批判をもっと謙虚に受け止めよう
   横山裁判官の論壇についての反論
岡 文夫 
  宮崎地裁の判事である横山秀憲氏が、下記の内容の「キャリア裁判官批判は心外」という記事を論壇に出しました。多くの裁判官も同氏と同様の気持ちであることは、二〇年間裁判官に就いてきた私も、十分理解できるところです。そして、多くの裁判官は、日夜、膨大な記録読みや判決書きに奮闘し、訴訟の改善に努力を重ねています。このことは国民に胸をはって訴えることができるものでしょう。

 しかし、そのことと、現在、弁護士会等から批判されていることとは場面が異なるのではないでしょうか。いくら努力しても、国民が求めていることと方向が違っていれば、国民の理解は得られません。

 現在、司法の問題点として挙げられているのは、一つには司法が利用しにくいという点ですが、それ以上に弁護士会等が問題にしているのは、裁判官の目が国民に向かわず、国家組織の擁護や自己保身へ向けられがちではないか、そのような危険性をなくするような制度が必要ではないか、という問題です。

 裁判官の目が国民に向かうためには、裁判官も一般社会人と同様の社会に参加できる必要があります。しかし、裁判官の何人が、一般社会人と同様にPTA活動に参加したり、自然保護活動などに参加しているでしょうか。

 約一年前に出された寺西事件と言われる最高裁の決定では、法律家として興味のある法律改正などに関する市民集会で裁判官が発言することは、裁判官として行うべき行為ではないとして懲戒処分を相当と判断しました。
 また、かつて最高裁は、青年法律家協会裁判官部会に加入していた裁判官に執拗に脱退を求めたりして、同部会を解散に追い込んだ経緯があります。

 そのような経緯のもとでは、裁判官が一般人と同様に社会に参加することは無理でしょう。裁判官の市民的自由(civil freedom)という場合の市民とは公民と解するべきであり、日本の裁判官には、そのような自由は限定されていることをまず自覚するべきでしょう。

 横山氏は、裁判官に昇進や出世の観念はないと述べています。しかし、裁判官にも、総括(裁判長)、所長、高裁長官などのポストがあり、裁判官の誰もが、そのようなポストに就くことが栄転であると考えています。

 そして、最高裁の方針と異なった判決をした裁判官が、それが理由で栄転のポストに就けなかったのではないかと思われる人事が多くあります。

 横山氏はそのことも認識していないかのようですが、そのような人事は、判決内容に影響しなくても、最高裁の方針を重視するという雰囲気を裁判所内に作り出し、裁判官の意識を国民以外の方向に向かわせ、それが官僚化の原因となることは否定できません。

 横山氏は、開廷時の「起立」「礼」を廃止したということですが、私も、前から民事訴訟においてそれを廃止してきました。今、それを廃止しようという裁判官が増えてきたのは、裁判官が官僚的であるという批判があるからではないでしょうか。裁判官が官僚化しないためには、常にそのような批判やチェックを受ける制度が必要なのです。しかし、現在はそのようなチェック制度はありません。逆に、最高裁は、起立の廃止を一般化すべきではない旨の文書を配布しました。このような統制が行われているのが日本の司法の現状なのです。

 制度のあり方は必ず人の心理に影響するものです。したがって、裁判官の目を国民に向け、非官僚的にするためには、より弱い心理を持った裁判官を基準にした制度を考える必要があります。裁判官の目を国民に向けるためには、国民自身が裁判官の選任手続きに関与できる制度を作ることが必要ではないでしょうか。

 日本と同様の任官制度をとるドイツでも、州議員や弁護士が参加する裁判官選考委員会等が大きな権限を有しています。裁判官もほかから評価されたい気持ちを持っていることは、横山氏の述べるとおりです。だから、このような委員会が日本に設置されたら、裁判官は、きっと国民に評価されたいと思うでしょう。そうすれば、今まで以上に意識は国民に向かうのではないでしょうか。

 裁判官への批判に謙虚に耳を傾け、その弊害を十分認識し、広い視野に立ってそれを改善する新たな制度を作ることに協力することが、裁判官の行うべき努力ではないでしょうか。




キャリア裁判官批判は心外 (2000年3月30日付朝日新聞論壇)
宮崎地方裁判所判事  横山 秀憲 
 裁判宮の任用制度は現在、司法修習生からすぐに判事補となり、裁判実務の経験を積んだあと判事となるのが原則である。このような「キヤリア裁判官」は社会常識に欠け権威的で偏った判断をすると近年批判されている。これを「官僚司法」の弊害であるとして、弁護士経験を裁判官の任用資格とする法曹一元制度の採用が唱えられている。

 しかし、これらの批判は、現に裁判官として誠実に職務を行っている者にとって誠に心外である。

 まず、批判されている社会常識の欠如とはどういうことか。裁判官も仕事以外では一般の社会人として普通の社会生活を営んでおり、日常的な社会常識に欠けるとは思えない。

 また、民事訴訟では裁判官は、両当事者の対立する主張について、どちらが正当であるかを判断するものであるから、負けた方はその判断を非常識と感じても、相手方はそうは思うまい。当事者主義の訴訟構造のもとでは、むしろ敗訴当事者の弁護士がどのような訴訟活動をしたのかが間われることもあるだろう。

 もっとも、時に裁判官の良識を疑うような言動が話題になることもある。だが、弁護士にも非違行為(社会的信用を損なう行為)があることからすると、法曹一元制によって非常識な言動がなくなるという保証はない。これは、多分に個人の人格や資質によるものであり、裁判官の任用制度の弊害とはいえまい。

 もちろん裁判運営に関する具体的かつ建設的な批判には真剣に耳を傾けるべきである。私の勤務する宮崎地裁では、法廷での「起立、礼」をやめるなど、権威的と批判される慣例の廃止に努めてきた。また、弁論準備や和解の際に当事者本人の生の声を聞き、当事者が納得することを前提に訴訟を運営する工夫をしている。これは、裁判所が内側から取り組んでいる改革の一例である。

 任地・給与などの人事を通じて最高裁の統制があり、裁判官は上の意向を気にして裁判をしているという批判も聞く。異動は裁判官にとって、多くの人と交わり自己の訴訟観を完成させる契機となるもので、前向きにとらえる人が多い。さらに、医療過誤など専門的知識を必要とする事件や、裁判が長期化している事案に対処するため、裁判官同士の意見交換の場を設けるなど、社会の急激な変化に取り残されないように努力している。

 子供の教育や親の扶養問題を抱える場合、私生活面での負担は重いが、全国規模の異動を覚悟して裁判官になった以上は、その必要性を理解したうえで遠隔地にも赴任しているのが実情である。

 このように生活環境に大きな影響を及ぼす任地について関心が高いのは当然である。また、裁判官も人間だから、ほかから認められたいと考えるのは自然のことである。多くの優秀な裁判官が地方都市で裁判の改善に尽力しているが、大部市の裁判所で自己の力量を試したいと考える人がいてもおかしくないだろう。

 しかし、裁判官には行政官のような昇進や出世という観念はない。そもそもなぜ裁判官を志すかといえば、ほかから指示・命令されることなく、法と良心に従って裁判できるからである。裁判官が具体的な事件を処理するに当たり、だれかの意向を気にしたり、任地や報酬をおもんばかって、良心を曲げて判断するということはおよそ考えられない。

 裁判官の中には、あたかもそういうおそれがあるかのように言う人もおり、それが裁判官全体の意見のように受け取る向きもある。しかしそのようなことを言う裁判官は自分自身が判決をする際、そういう考慮を働かせているのだろうか。もしうだとずれば、裁判官としての職務に反していると言わねばなるまい。

 裁判は、当事者にとっては一生に一度あるかないかのことである。裁判官としても、常に自戒して一仕一件納得のいく審理と判決を心がけているはずであり、自分自身もそうしてきた。私は約二十五年にわたり、東京・大阪の大都市の裁判所から北海道の小さな支部まで、全国各地の裁判で勤務してきた。これまで述べことはは、常に裁判実務の第一線にいて数多くの裁判官に接した私の経験に照らし、大多数の裁判官の最低限の心意気といって間違いない。