● 裁判員経験者のお話を聴いて
福岡高裁 森野俊彦
 裁判員裁判の経験者のお話は,三者三様に興味深かったですが,「興味深い」という言葉がそぐわなく感じさせるくらい位,感動的でした。そして,真っ先に感じたのは,私は,(刑事裁判から離れて久しいのですが),私自身が以前に刑事裁判を担当していたときに,事実関係に争いのない事件で,被告人のことをこれだけ考えたことがあったのだろうか,ということでした。もちろん,合議事件の量刑に際して(刑事裁判では,裁判長の経験はありませんが),犯行態様やその結果はもちろん,犯行に至る事情,被害者あるいは遺族の気持ち,被告人の反省の程度,被告人の将来等を一生懸命に考え,発言し,それを判決文の文章として表してきたつもりですが,そうした営為が,まだまだ不十分で至らないものであったのではないか,という思いにさせられました。

 それは,日々の法廷において,自分の目の前に来る事件がひとつ一つ決して同じものではなく,被告人も,あるいは被害者もそれぞれの人生を生きてきて,今回の「犯罪」に至ったのだと認識しているにもかかわらず,毎日毎日そうした事件に遭遇し,審理を重ね,判決言渡という作業を続けるなかで,不可避的に生じてしまった「慣れ」のせいかもしれません。プロの刑事裁判官が,「慣れ」を恐れて,目の前の事件をそのたびに初心に立ち返って,審理し,刑の量定をしようと思っても,これまでの「体験」が災いして,これができなくなってしまった,ということがあるのではないでしょうか。裁判員経験者のおひとりが紹介された,裁判長の「今までになく充実した裁判をした感じがします。」という感想は,裁判員に対するねぎらいの意味もあったにせよ,心底の実感と受けとめたいです。

 裁判員裁判の導入にあたり,刑の量定まで,裁判員と裁判官の評議で行うことについて疑問視されたことは,よく知られた事実です。私自身も,裁判員裁判の真の目的は,犯罪事実が争われたときに,3人の専門家だけではなく,それぞれ多様な経験を積んだ市民にも事実認定に加わってもらい,その協働作業のなかで,いかに被告人の弁解を謙虚に聴き,「疑わしくは罰せず」の理念を現実に機能させることが,最大ではないかと思っていました。今でも,その考えを変えたわけではありませんが,裁判員裁判の経験者のお話を聴き,「量刑」についても市民の参加を得る方がいいのではと思うようになりました。今回の裁判員裁判経験者のお話しは,そのような思いを抱かせるにふさわしい,中身の濃いものであったことは,お話に耳を傾けたすべての人が思われたのではないでしょうか。

 私が今回のお話しで感じたことはまだまだあるのですが,中身に触れるのは,評議の秘密との兼ね合いで難しい側面があるように思います。私は,従前から,評議の秘密について,かなり厳格な立場をとっていました。詳しい議論は,省略しますが,しかし,今回のように,ある限られた集まりのなかで(もともとは広く参加を求めたわけですが,結果的には「限られた」ものとなりました。),語り手が,評議の秘密の意味と重大性を十分に認識し,それを尊重しつつ,ここまでは許されるという謙虚な気持ちで,語られるのであれば,それは当然許されてしかるべきだし,そういう「語り」によってこそ,「裁判員の経験」あるいは「評議」を,伝えられていくべきではないか,と思いました。 (了)

(平成22年7月)