● 裁判官生活に学び、考えたこと
2011年11月12日
小松平内
1 皆様への感謝
 私は、定年まで3年半を残してこの2月28日に退官し、3月28日から自宅のある宮崎市で公証人と家事調停委員をしています。ネットワークには途中から参加しましたが、控えめな性格のせいで活動らしいこともせずひっそりと現役を終えました。表舞台で活躍できなかったものの、社会で圧倒的多数を占めている普通の人々の一人として心情を吐露するのも一興かと思ったことと、私の今日あるのは、ネットワークメンバー、サポーター、そしてファンクラブの皆様方との交流・支えのおかげと、感謝と御礼を申し上げるために恥を忍んで出てきました。
 在任中特に刺激的だったのは、木佐先生の名著「開かれた裁判所と行動する裁判官」に啓発・触発され,多数の裁判官と共に訪独し、裁判官や弁護士と交流し、その実情の一端に触れ、かつ参審裁判(刑事)の迅速かつ適正な運営に驚嘆したことです。また、その後陪審裁判を勉強すべく訪米し、国民の司法参加が陪審裁判として根付き、国是とされているのを実感しました。これらの体験を通じて広い視野で物事を見ることや自分の意見に自信を持てるようになったと感じます。
 さらに、ファンクラブの皆様と交流する中で、裁判を利用する立場にある市民の意見を聞き、いわば身内だけの議論から脱却し、当事者の主張の背後にある事情や真の要求に思いを致すことができるように成長した(ように思います)。これらが終始私の裁判官としての姿勢を正し、モチベーションを維持する原動力になったと確信しています。


2(1) 主題その1「傾聴」について
 家事事件で当事者対応に苦労し、「傾聴」を意識したので、主題として取り上げました。「傾聴」とは、昔から言われている「聞き上手」とほぼ同じ問題意識だと思います。裁判員裁判で必要とされる裁判官のコミュニケーション能力と関連しているうえ、ファシリテーションやプレゼンテーションの各能力ともつながっています。
 当事者主義構造の下では裁判官は専ら聞き役で、攻撃防御活動の主役は、訴訟当事者、代理人弁護士であり、刑事では検察官が加わります。尋問技術を身に付けている裁判官は少なく、訓練の機会も乏しいのです。裁判官の補充尋問等は、極端な誘導や押し付けなどにわたることが目に付きます。自分でも心証に基づく判決内容に沿った形で証拠整理しようとするあまり、同様の尋問に陥り勝ちであったと反省するところです。ところが、職権主義構造の少年・家事審判では、裁判官が主に質問を担当します。勝手が違い、事実はもとより当事者の言い分・主張を適切に引き出すことが困難な状況になることが少なくないのです。民事の本人訴訟でも同様の問題があるでしょう。一審の判断に対する不服申立ての中で、自分の言いたいことや話したいことを言えなかった、聞いてもらえなかったとの不満をもらす人が少なくありません。その内実はさまざまでしょうが、手続を主宰し最終判断を示すべき立場にある裁判官が当事者の言い分・主張を適切に引き出すことができなかった責めを免れることはできません。言い分を十分展開し、理解してもらえたと感じられる当事者は、たとい結論が意に沿わないものであったとしてもそれなりに納得するのではないでしょうか。
 傾聴とは、心理カウンセリング上のテクニックであり、「こちらの聞きたいこと」を「聞く」のではなく、「相手の言いたいこと、伝えたいこと、願っていること」を受容的・共感的態度で「聴く」ことです。その目的は、相手が自分自身の考えを整理し、納得のいく結論や判断に到達するよう支援・援助することです。字のごとく「耳と目と心できく」のが基本です。
 留意点は、(1)話し手の話に関心を示して耳を傾け、理解すること、例えば、一心にメモを取る、頷く、質問する、途中で反論や批判をしない、責めないこと、(2)言葉の背後にある感情をも受け止め、共感を示すこと、例えば、「○○だったんですね。」などとオウム返しをして話し手の感情を明確にしたり、共感・ねぎらいの言葉をかけることも大切、(3)言葉以外の行動に注意を向け、理解する(姿勢、しぐさ、表情、声の調子など)こと、(4)ポイントごとに、聞き手自身の言葉で内容を確認することが、共通の理解を得られるとともに、問題点の整理に役立つ、ただし、聞き手がその価値観を入れないことが肝心、(5)話し手の判断や決断を支持し、認めることも必要かつ有益なこともあること、(6)5W1H(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのように)を明確にすることなどです。
 傾聴に意識的に取り組んでからの具体的事例として長期係属の遺産分割事件の調停成立、気難しい当事者が提起した本人訴訟の和解成立などが思い出されます。
 私は、これから公証人、調停委員、そして少年付添人として活動していく中で、傾聴を実践し、より高度の技法に高めていきたいと考えています。

 (2) 主題その2 「信念」、「こだわる」、はたまた「とらわれる」について
 自分のこだわり、それに伴う偏り(バイアス)を話題にしますが、未だに自問自答を繰り返している有様ですから、全然まとまっていません。はっきり申し上げて支離滅裂と言われるような状況ですので、最初にお断りします。
 私が裁判官生活で誇れることがあるとしたら唯一「節を曲げなかったこと」、「立ち位置がぶれなかったこと」だと思います。60年代から70年代にかけての学生紛争及びその後の激動する時代の中で、特例判事補以上の裁判官の下請けをする参与判事補拒否問題、毎月開かれる地裁本庁での裁判官会議の活性化を図るべく話題提供問題、特例判事補を半人前扱いする待遇改善問題、夜間令状処理担当裁判官の当番制導入問題など、次から次へと対応に苦労する出来事が連続しました。
 その中で挫折することなく頑張れたのは、自分の出身と生育歴も背景にあったのかと思います。家業を継ぐ立場にある者として育てられましたが、自分にも日本国憲法で保障されている職業選択の自由があるのでは思い、親に家を出たいと話したところ、即座に拒否されました。やむを得ず、ひそかに家を出る実力行使に出ました。基本的人権に関わる憲法問題ですが、実質はただの家出少年、少年法では「ぐ犯」という非行少年に過ぎません。また、東京で苦学していた折、当時の運輸省の事務官に父親のひき逃げ交通事故被害による政府補償金請求の棄却理由を聞きに行った際の出来事がありました。当時補償限度額は30万円だったのですが、請求額がそれを上回っているので請求全部が認められないとの説明でした。その説明には納得できなかったのですが、当時の私には事務官の論理に反論する知識も能力もありませんでした。今では理路整然と反論できると思います。思い出す度に未だに怒りがこみ上げてきます。私以外にも不当な処理によって正当な権利を実現できなかった被害者が少なくないと確信します。このようなことは、どの社会・組織にもあることで、今後もなくなることはないでしょう。加えて、町工場の工員や配送自動車の運転手等として働く中で、過酷な労働条件・環境にも拘らず明るさや希望を失わず、よりましな明日の生活を夢見てまじめに働く多くの仲間と出会いました。いまだに交流が続いている人もいます。
 このような原体験が、当事者に寄り添い、その権利実現のために努力する弁護士ではなく、判断者である裁判官への道を決意させ、常に弱い立場にある労働者や管理・支配される立場にある者の視点で、考え行動するという私の性向を形作ったものと考えています。事件に取り組む姿勢・モチベーションを維持する原動力にもなったのではと思い返します。つまり、多感な時代の経験が、こだわりを含めて自分の人生観・世界観を規定してしまったように思います。このこと自体は、恥じることでも後悔することでもなく、裁判官として事実を認定し評価するうえで、体験し背景事情等を理解する者として、自信を持って判断し、評議に臨み、判決で示すことにつながるなど、有益でもありました。
 しかし、そうはいっても心が晴れない。私のようにいわば抵抗型の者がいる一方で、いわば管理型の者もいます。否むしろ裁判官の中には後者が多数を占めているように思います。故に自分のこだわりを声高にひけらかすことには躊躇を感じます。裁判官は、中立の立場に立って、何ものにもとらわれずに、公正な判断をすることが期待され、職権の独立行使が憲法上保障されていることにかんがみると(熟慮を重ねた末の「信念」であるならばともかく)、自分の狭くかつ乏しい経験に基づく固定観念にとらわれていたのではないかとの自省を禁じえません。労働者や弱い立場にある人だけで構成されている社会ではないことから、逆の立場にある人の権利や利益も保障されるべきは自明の理です。そのような権利や利益を無意識のうちに軽く見たり、扱ったりしたことはなかっただろうかという思いなのです。
 誤解のないように補足しますが、裁判官は何事にもとらわれることなく、精神的にフリーな状態で判断するのが望ましいと言っているだけで、もとより一定の価値観・信念をもつことを否定的にみている訳ではありませんので念のため。
 今後は、認知や心理のバイアスなどを十分意識しつつ、自分の思いの発展的統合を図り、事実認定・判断能力の向上を目指したいと考えて得ています。


3 おわりに
 35年余の裁判官生活では常に「正論」を展開してきましたが、殆ど採用されませんでした。「正論」を吐く私はさぞかしやっかいな存在だった思います。それでも、勤務する先々の裁判所で度量の広い多くの先輩裁判官や同僚裁判官に恵まれました。閻魔帳の悪評価を書き直して置いたよとそっと耳打ちしてくれた所長、私のことを夜間当番制導入を声高にいう困ったやつとこぼす地裁所長に、むしろいまどき当番制がないほうがおかしいと同所長を諌めてくれた家裁所長などなど、具体例は多数あります。本当にありがたいことだと感謝の気持ちで一杯です。さまざまな不利益待遇や差別を受け、心が折れそうになりながらも、志の高い多くの人々と、より民主的な裁判所運営の実現を目指して活動してこられたことを誇りに思っています。これを表現する言葉は、「世の中捨てたものじゃない。」です。
合掌

(平成23年12月)