● 鳥越講演について(2) |
石塚章夫 |
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私の質問が鳥越さんの発言をトーンダウンさせてしまったとしたら、所期の目的外でした。ただ、私は、裁判官にとっては、誤判や冤罪の問題は、表立った「謝罪」の問題ではなく、鳥越さんが私の質問に対しても再度話された「心の内部の痛み」の問題であり、制度としては、「裁判所内部での検証」の問題であると考えます。「無罪の立証」がされてしまった足利事件は例外かも知れませんが、一般的には、「誤判」や「冤罪」は極めて定義しにくい概念であり、一度「謝罪」が行われれば、「謝罪」すべきである場合とそうでない場合の区別が大変つけにくくなります。
私は以前「失敗学としての誤判研究」(光藤景皎先生古稀祝賀論文集、2001年)に、「誤判」を「被告人を有罪とするのに合理的疑いが残るとして無罪が確定した事件について、有罪の判断をした場合」と定義しました。そして、そのような体験をした裁判官について、その検証・検討の場の保証を提唱しました。
「この点の検討は、裁判官の良心に基づくものであるから、あくまで裁判官の自主的な申し出によって始めなければならない。そして逆に、そのような申し出があった場合には、司法行政上、その条件を保証する体制を作るべきである。あるいは、数年に一度、そのような時間を取れるような制度を作ってもよいであろう。そのときには、一定時間裁判の現場から離れて、記録へのアクセス、関係裁判官との意見交換の場の設定、共同研究者との討論の場の設定等、自由かつ自主的な時間と場が保証される。そしてその結果報告は、事実認定の研鑽資料としてだけ使用され、もちろんその裁判官の勤務評定等に利用してはならない。」
今回の鳥越さんの講演を契機に、この点についての議論が広まることを期待しています。
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