● 障害を持つ方が裁判員を務めるために
サポーター(弁護士・元判事補) 中 村  元 弥
 この間,日本弁護士連合会の会議などで,障害を持つ方が裁判員を務めるための条件整備について考える機会が多かった。私たち法曹が障害を持つ方の状況について,いかに理解していないかを痛感させられた。

 健常者(最近は何が健常者なのかが怪しいが)は,視覚障害を持つ方はほぼ例外なく点字が読め,聴覚障害を持つ方はほぼ例外なく手話が理解できると思いがちであり,だからこそ書面を点字化したり,手話通訳者を用意したりすれば十分であると思いがちである。しかし,視覚障害を持つ方の中でも点字の読めない方が相当数おられるようであり,こうした方には,起訴状等の配布書面の内容を音声で入力しいつでも再生できる装置が準備されて初めて評議への実質的な参加が可能になるのである。また,点字の読める方でも,起訴状などの読みつけない文書への理解をより深めるためには,同様の装置が配布されることが望ましいとのことである。しかし,それを誰が用意するのか,仮に当事者が用意したとして本当に書面と同一の内容が録音されているに過ぎないのかをどうチェックするのか(そもそもチェックする必要があるのか)といった問題がたちまち想起される。自らも視覚障害を持つ大胡田誠弁護士は,いわゆる及川事件の模擬裁判を傍聴していて,公園内の人物の位置関係が把握しにくかったところ,横に座った人から手のひらに位置関係を描いてもらうことによって十分に把握することができた経験を紹介し,補助者の必要性を訴えている(後記「ノーマライゼーション」23頁)。本年5月25日には京都市で,裁判員のうち2人が全盲者,2人が弱視者という形での模擬裁判が,法曹三者の協力を得て行われるそうである。どのような課題が浮かび上がるか注視したい。
 更に問題なのは聴覚障害を持つ方である。我々健常者は,手話通訳者さえ配置すれば意思疎通が可能になると思っているきらいがあるが,実はつい最近まで日本の公的な聴覚障害者教育では,手話は日陰者の存在で,口話法(相手の唇の形や動きを見て話す内容を理解し,同時に自ら喋ることができるような発声訓練を行う教育方法)が徹底的に指導され,手話を学校内で使うことは禁じられていたところが多かったそうである。だから,口話法も手話も十分に習得できなかったために,コミュニケーションに不便を抱えている聴覚障害者は意外に多いのである。偉そうにこういう文章を書いている私も,聴覚障害を持つ女優忍足亜希子さんの著書「女優志願」を9年前に読んで,はじめてこのようなことを知った次第である。裁判所としても手話通訳者の方を手配するだけでなく(更に言えば日本には手話は2通りあるそうである),「要約筆記」という手法でも対応できる準備が必要となるし,裁判員によっては両方の併用が必要となる場合もあろう。事前の調査票には,障害を持つ方がこうした要望を書きやすい工夫がなされる必要があろうし,FAX等での問い合わせルートを開いておく必要も出てこよう。最近は,裁判特有の言語についての手話の研究が進められているようであるが,仮に「心神喪失」,「心神耗弱」という手話を作ってみても(実際に試作されている),受け手に理解されないようでは意味がない。この点は,難解な法律概念をいかに分かりやすくかつ正確に(両当事者にも異議のない形で)裁判員に伝えるかという前提問題にも絡んでくる(ちなみに,「裁判官」という手話は,「裁判」+「男」という両性の平等委員会からお叱りを受けそうな表現である。)。後記参考文献の「法曹」伊藤論文を読むと,アメリカでは評議室では手話通訳者が発言者の背後に移動して手話通訳をし聴覚障害を持つ方に対して発言者が誰なのか分かりやすくするといったスキル(更に言えば同時発言しないマナー)が確立していること,そもそもアメリカでは公認通訳者の資格が整備され職業として十分にペイしていることに感銘を受ける。翻って日本の状況を思えば,呼び出される裁判員候補者に聴覚障害を持つ方が含まれている場合に,果たして常に適切な手話通訳者・要約筆記者を確保しうるのかという課題は相当に重く感じられる(もっとも裁判所だけの問題でなく社会政策一般の問題ととらえられるべきであろうが)。
 そして,裁判所との間でもっとも意識格差がありそうなのが,知的障害を持つ方についてである。裁判所としては裁判員法14条3号の「心身の故障のため裁判員の職務の遂行に著しい支障がある者」という条文を盾に,殆どの場合に欠格事由ありという姿勢を示しそうである。しかし,この条文は事件ごとの個別・具体的な判断によるべき幅も相当にあると思われ,少なくとも知的障害者であることのみで一律に排除するような運用はなされるべきでない。知的障害を持つ方の中には,日常的に接する近親者やボランティア等の援助を受ければ相当程度のコミュニケーション能力を発揮しうる場合もあると思われ,そうした援助者の方々について,被告人に対する補佐人(刑事訴訟法42条),証人に対する付添人(刑事訴訟法157条の2)とパラレルに位置づけて,知的障害を持つ裁判員に付き添って法廷に入り,評議にも付き添うことを要望する声もある。もちろん代替性のない被告人や証人とパラレルには論じられないという反論は可能であろうし,手話通訳者のような公的な資格を持たない者が評議室に入ることについては大きなハードルがあると思われるが,法曹としてはこうした議論があることも受け止めておきたい。

 以上,裁判所をターゲットに書いてきたが,裁判所以上に問題になりそうなのが,弁護人である。障害を持つ方のために特別な配慮を求められるのを嫌がって,選任手続で障害を持つ方に対して「戦略」的に不選任請求する輩が出かねないことを危惧している。裁判官がこうした障害を持つ方々と接することが,障害を持つ被告人を法廷に迎えた場合の訴訟指揮等に大きな影響を与える可能性を念頭に,弁護人として人権感覚あふれる適切な活動が求められるところである。

 この問題を含め,我々法曹は,裁判員裁判をめぐるこの間の諸実験を通じて,いかに他の職種の方々の日常生活に対する想像力が欠如していたかを反省させられる局面に多く出会った。3日を予定していた裁判員候補者が,午前半日の選任手続で選ばれなければ,喜んで仕事に戻るだろうと想像していたところ,3日間の不在を前提にシフトを組んでいるので今更会社に行ってもする仕事がないと文句を言われて呆然とするという経験もした。ある裁判官は辞退事由に関する判断資料収集のために管内の第一次産業の御家庭にうかがって実情を聞き,その生活の大変さに改めて多くを学んだそうである。一部の裁判官には民間企業研修の機会はあるが,大企業に限られ,自ずと限界も多い(「月刊司法改革」12号の拙稿「極私的裁判官企業研修論」参照)。裁判官が選任手続等の中で小規模自営業者や農・漁業者等の日常生活を知れば,日本の「人質司法」の異常さを理解してくれるようになるのではないかと密かに期待している。ちなみに,韓国については国民参与制度ばかりが脚光を浴びているが,刑事訴訟法改正において「不拘束捜査の原則」が明文化され,第一審の被告人のうち約2割程度しか勾留されていないことが,もっと着目されるべきであろう。


参考文献
     雑誌「ノーマライゼーション」(財団法人日本障害者リハビリテーション協会)2008年12月号
     「特集・障害者と裁判員制度の課題」
     雑誌「法曹」(財団法人法曹会)2009年1月号所収の伊藤隆裕論文
     「聴覚障害を持つ陪審員の審理参加について−フルトン郡上位裁判所における実例」
     「刑法通信」(日本弁護士連合会刑事法制委員会)111号

(平成21年6月)