● 守秘義務を課す理由について

元刑事担当裁判官(サポーター)

1 裁判員に対して,評議の内容について守秘義務が課すことが,大きな苦痛を与え,非人間的であるかのようにマスコミによって繰り返し取り上げられている。新聞の投書欄をみていると裁判員候補者その他の国民も既にそれが現実の苦痛であるかのように思いこんでいるようである。
  マスコミや一部識者の意見を大まかに分析してみると,評議内容についての守秘義務に対しては主として2つの方向から非難攻撃がなされている。一つは,国民の知る権利を背景にして,裁判員制度の検証の機会を奪う,あるいは裁判員の経験が引き継がれないという弊害があるという主張である。もう一つは,主として新聞の投書として現れる一般国民の立場からの素朴な意見であるが,裁判員自身は,被告人を死刑にすべきかというようなこれまで考えたこともない大変な判断を迫られながら,家族,友人等にも悩みを打ち明けることが出来ないという苦しみを負わされるということである。「秘密を墓場まで持って行くことを刑罰によって強制される」とか,「裁判官には守秘義務違反についての罰則がないのに不公平だ」という激しい表現までされると,裁判員制度とは何という非人間的な制度だろうかと思わされるであろう。それが裁判員として参加することに消極的になる理由の一つとなっているのではなかろうか。
  マスコミの取り上げ方で不思議なのは,守秘義務を課す理由は何かという観点で深く掘り下げることはしないことである。したがって,十年一日のごとく同じことが繰り返され,議論が深まっていかないのである。

2 それでは,評議の内容について守秘義務が課せられるのはなぜだろうかを考えてみよう。
 1) 社会的関心の強い事件では,評議内容自体が強い興味関心の対象となるであろう。また,そのような事柄については,細部に至るまで迅速にインターネットやマスコミに流すことが容易な時代である。さらに,裁判員自身が話したいと思わなくても,評議の内容について話すように働きかける者が必ず出てくる。自己顕示性が強い人だと詳細に発表して社会的注目を浴びたいと思うかも知れない。
 2) 裁判員Aは,有名な事件の裁判員になったことを職場などでも話し,開廷の都度その審理状況を周囲の人々に報告していると仮定しよう。それが,凶悪事件であり,社会的批難が強かった被告人について,評議の結果死刑にならず,無期懲役になったが,その判決を周囲から批判されたときに,その裁判員は,実は自分の意見は違うんだ,自分は死刑に賛成だったが,Bという裁判員が死刑反対論を強硬に主張したので何人かの裁判員が消極意見になった,という自己弁護のためや,評議で少数となったことのうっぷうんばらしのために評議の内容をぶちまけて,多数意見をリードした人を攻撃するということが考えられる。さらには,それが発展して,甲被告人は死刑にすべきだったという意見と共に,評議の経過を詳細にブログに書くことも考えられる。これに反発したBとの間で,死刑に対する考え方の問題にとどまらず,評議の経過が違うなどの議論に及び,ネット上で泥沼の論争が展開されて,これをマスコミがあおり立てるということさえ十分起こりうるのである。
 3) このような「場外」の議論になると,裁判官が発言することもできないから,真相を明らかにし難く,粘り強く発言する者の言い分が真実であるかのように受け取られる危険もあり,結局裁判不信だけが残ることになる。名前を出された裁判員,裁判官も社会的に傷つく危険がある。もし,死刑回避の中心になったとされた裁判員が,被害者の遺族や一部の狂信的な者から攻撃される事態だって起こり得る。評議の公表が処罰されない,あるいは処罰されても罰金刑しかないということになると,上記のようなことが堂々と行われることを事実上止められないのである。
 4) そのようなことが現実に起こったとすれば,その後裁判員になる人にとっては,評議において発言することは公表されるかもしれないという気持ちになる。とくにその時点での社会的気分に反する意見を述べることをはばかる人も出てくるかもしれない。評議内容の公表は,裁判員裁判の命である「裁判員と裁判官による自由な評議」の妨げになることが強く懸念されるのである。
 5) 裁判員制度に消極的な意見の中には,裁判員を守ってくれるのかという不安の声も強いものがある。評議の秘密遵守は裁判員の安全を守るための方策の重要な一要素である。厳しい刑を科せられた被告人の周辺にいる者が,重刑にした者に恨みを抱かないとも限らない。その逆の場合もある。その場合に,誰が重い刑を主張したのかが外部的に特定されるということは,それが真実かどうかにかかわらず,非常に危険なことである。その危険は,裁判官においても同じである。一部に,アメリカの例を引くなどして,判決が終われば守秘義務を解除しても良いではないかという議論があるが,判決が言い渡されてしまえば危険がなくなるものでもない。マスコミは,このような国民の不安を守秘義務の問題と切り離して論じていることが多いのは不思議というほかない。意識的に結びつけないようにしているのではなかろうかとさえ思ってしまう。評議の秘密が裁判官を守るためにあるというような議論もあるが,偏見が過ぎるではないだろうか。

3 角度を変えて考えてみよう。一般国民は,守秘義務には縁がないから,裁判員制度は国民に無用な負担を負わせるような言い方をされることもあるが,前提が間違っている。実は国民は,勤務する会社においても,官庁においても,また家庭においても,多かれ少なかれ外部には知らせられない秘密を持っている。家庭内でさえ秘密があるのが現実であろう。通常人であれば,他人に対して全く秘密のない人はいないと断言してもいいであろう。そして,我々は日常的に他人に話をする限度をわきまえ,ここまでは話してもいいがここは言わないと決めて自分の秘密を守っているし,そのような能力を自然に身につけている。評議の秘密も,上記のように自分自身の安全や制度を健全に保持するために意義のあることであることが理解できれば,裁判員が最小限度の秘密を守ることは言われるほどの苦痛ではないと考えるがどうであろうか。しかも,評議の話を一切誰にも何も言うなということでもない。どこの誰さんも裁判員だったとか,だれが無罪を主張したとか,何票対何票で死刑に決まったとか,誰が死刑を主張した,誰が反対したというような具体的な話はするなということである。限られた秘密を,しかも理由が分かっていて守ることが苦しいということはないはずである。元検察庁高官の談話によれば,数十年の歴史を持つ検察審査会制度においても,いまだかつて秘密漏洩で処罰された事例はないという。家庭の中で,あるいは親しい友達に,裁判の審理や評議の苦労を語って慰労してもらうことは,一定の限度を守れば何ら差し支えない。その際に若干の行き過ぎがあったとしても,処罰される事態になることは現実には考えられない。後藤昭一橋大学法科大学院教授も述べているように,摘発されるとすれば,インターネット上で評議の内容を公表したり,ブログに克明に書き込んだりするような場合なのである(マンスリーインタビュー第37回「裁判員制度を自分たちで活かしていく」)。

4 制度見直しが予定されていることもあるから,裁判員裁判を良くするために,評議の状況に立ち入って検証することに意義があることは否定しない。また,後の裁判員候補者に経験を引き継ぐことも有意義だろう。しかし,前記のような評議の内容が公表されることによる危険を考えるときは,それらの有意義な目的のために一般的に評議の内容の公表することを許可せよと主張するのは正しくない。
  前者の目的のためには,法律実務家,学者,マスコミ関係者その他の有識者も加わった公的な委員会が,裁判員の評議が健全に行われているかどうか,制度上の問題点は何かなどに関して,聞き取り調査を行うことが考えられる。そして,公益の目的のために必要な範囲で調査結果が公表されればよい(このようなことは韓国では既に考えられているようである。)。公表の際には個別事件の評議の内容や裁判員や裁判官の個人名が明らかにならないようにするのは当然である。
  後者については,裁判員の有志が記者会見に応じて,守秘義務に反しない範囲で,裁判に関与して難しいと感じたこと,自分のために意義があったことなどの感想,裁判員制度の意義について,裁判所に改善を求めたいことなどを述べてもらうことも検討に値するだろう。また,将来裁判員経験者による協会のようなものができるならば,経験者の感想,意見を集約して,裁判員になる者の心構えその他の助言などをまとめることも考えられる。
(平成21年6月)