● 負担と不安
  ―それでも裁判員になってほしい

伊東武是(神戸家庭裁判所)

  1. はじめに
     裁判員裁判に対する国民の消極意見の主なものは,「負担」と「不安」の二つに尽きるように思われる。「負担」の面については,日本裁判官ネットワークブログに若干のコメントをした(5月19日)。今回は,「不安」の点に触れてみたい。
     「有罪無罪といった難しいことを判断する自信がない」「量刑などまったく分からない」「死刑になるような事件は怖い」等々である。「人を裁くことなどしたくない」といった意見もあるが,裁くことの難しさ,自信のなさを感じるからこそであろう。不安と通じ合うように思われる。模擬裁判で裁判員を体験したある女性が,「一つ一つの判断場面で,フラフラばかりして,なかなか自分の考えが決められない」と語っていたことが印象的である。
     どれももっともな気持ちであり,多かれ少なかれ誰しもが抱く不安感情である。裁判官だって,自分の下す判断にいつも自信があるわけではない。最後の最後まで迷いに迷い,言い渡した後でも「はたしてあの結論でよかったか」と,まだくよくよ悩むことさえある。
     被告人が争っている事件で,有罪無罪を決めることは,確かに,簡単なこととはいえない。たとえ簡単に思われても慎重に決すべきものである。人に刑罰を科することには,重い責任がある。慎重さを要し,責任を伴う職務には,不安が伴って当然と言える。逆に,不安を覚えない軽佻な人や自信過剰の人が,裁判員にふさわしいといえるかどうか。

  2. 9人寄れば○○の智恵
     しかしながら,まず,心強い点として,自分独りで裁判をするのではなく,他の8人の人たちとの共同の仕事だということ。自分に分かりにくい点は他の人が補って判断に手を貸してくれるはず。多いに他のメンバーを頼ればいい。自分の自信の持てるところは,他の人を説得してほしい。「3人寄れば文殊の知恵」というではないか。ましてやその3倍の9人もいる。安心して貰っていい。

  3. 参考事例
     裁判における判断の実際は,取り付きやすいところから一つづつ,積み木を重ねるようにして結論に至る作業である。だとすると,そう心配することではない。誰でも参加できる。
     実際の裁判では,大部分は被告人が自分の罪を認めているので,有罪無罪で頭を悩ますことはまずない。量刑判断が中心となる。以下の参考例は,むしろ希な難しい事例で,そうめったにはない。
     放火事件で,被告人は,自分は犯人ではないと争っている。放火したところを見た人は誰もいないが,検察官の証拠は,(1)火災発生直後に,遠くに住んでいるはずの被告人が火事の現場から走り去るところを目撃されている。(2)当夜はいていたズボンの裾に灯油が付着していた(火事は,家の軒下に灯油をまいて火を放ったもの)。(3)被告人は,被害にあった家の持ち主に恨みを抱いていた,の3点である。

  4. 証拠調べの攻防
     検察官提出の証拠がこの3点を完璧に立証し,被告人側がこれに反論すべき証拠を提出できなかったら,どうだろうか。被告人が有罪だということに迷いがあるだろうか。
     では,被告人側が,反論する証拠を提出して,次のように検察官の立証を動揺させようとした場合はどうだろうか。被告人を有罪と認定するには,検察官は「被告人が犯人であることについて合理的疑いを入れない」程度まで立証しなければならない。
     (1)について,被告人を見たという人の目撃証言をぐらつかせ,その逃げ去ったという人が被告人であることに疑問を抱かせる証拠を提出した。
     (2)について,そのズボンを当夜はいていたかどうか疑問を抱かせる証拠を提出した。
     (3)について,被告人にその家の人と関係なく,被告人に放火の動機がないとするような証拠を提出した。

  5. 評議の方法
     このような事件の場合,評議は,まず,(1)(2)(3)を一つづつ分けて,それぞれが認められるかどうか(被告人側の反証を考慮した上でなお検察官の立証が成功しているかどうか)を吟味していく。この(1)(2)(3)の被告人の有罪を基礎づける事実(積み木)についても,検察官は「合理的疑いを入れない」程度まで立証しなければならない。
     裁判員と裁判官の9人が意見を出し合う。(1)についてなら,目撃者がどのくらいの近いところか見たのか,明かりの関係で被告人の顔や特徴ががどのくらいはっきり見えただろうか。被告人だという証言にどれだけの自信が込められているか,などなど,小さいところから,一つづつ議論を重ねていく。そのうちに,その目撃証言は信頼できるかどうかが,見えてくるはずだ。

  6. 迷いがあれば
     最初は,判断に迷いがあっても,他の人の意見がもっともだと思えば,それに賛成すればよい。意見が分かれたら,少し時間をもらって考えさせてもらえばいい。最後まで迷いが残れば「疑わしきは被告人の利益に」(合理的疑いがある場合)という原則に従って,被告人に有利な方((1)は認められない,目撃証言は信用できない)に賛成すればよい。
     (1)の議論が済めば,(2),(3)と順番に進んでいく。最後に,認めることのできた事情を総合して,被告人を有罪とできるかを討議する。
     積み木が重ねられていけば,有罪方向に進むだろう。積み木を重ね損なえば,無罪方向に傾いていく。
     弁護人の立証によって,被告人にアリバイが認められれば,検察官の立証はひっくり返ることは,誰でも理解できる。アリバイが完全とまではいかなくても,相当程度に立証されても(被告人は,犯行時刻に別の場所にいた可能性が強いなど),有罪は困難になるといえないだろうか。

  7. 量刑の評議
     量刑についても,裁判員の多数から自主的に,これまで事件例による参考資料を示して欲しいとの要望があれば,裁判官側が用意してくれるはずである(ただし,多数の裁判員からの要望もないのに,裁判官側が議論の早い段階で安易にこうした参考事例を紹介することは,裁判官が裁判員をリードしすぎるとの批判を招くので,慎重であるべき)。そうした例が納得できれば,それを基準として,その事件の量刑を考えればいい。参考例が余りにも重すぎる(軽すぎる)と感じられれば,これにとらわれずに,もう少し軽い(重い)意見を出せばいい。量刑の枠組み(裁判官が示してくれるだろう)は,たとえば,懲役3年以上30年までというふうに,非常に幅があるので,検察官の求刑意見を参考にしつつ,その人を重く処罰したいか,情状酌量したいかといった自分の感覚を大切にして意見を述べればいい。他の人の意見と異なることを遠慮することはない。最後は,9人の意見が調整されて,多数意見が決められることになる。

  8. 死刑求刑事件
     死刑求刑の事件にあたっても(めったにあるものではないが),どうしても,死刑という刑に反対ならば,あるいは,死刑まではどうしても踏み切れなければ,当然のことながら,それを主張すればよい。他の人に遠慮することはない。迷えば,ここでも被告人に利益に判断して,死刑ではなく,無期懲役などを主張すればよい。

  9. 報復の不安
     被告人やその支援者らからの報復を恐れる意見もある。しかし,考えていただきたい。これまで,裁判官は,全国で毎年数万の刑事事件に判決を下しているが,報復を受けたというニュースは聞いたことがあるだろうか。何十年か前に,過激派から狙われた裁判官が報道されたことがある以外に,私の記憶にはない。被疑者と直接にかつ長く対峙し,恨みを買いそうな取調警察官でさえ,そのために報復を受けたという報道を,ほとんど聞かない。ということで,心配を解消していただければと思う。(報復声明などで,裁判員に対する報復が現実に心配される事件は,裁判員裁判をしないで,職業裁判官だけですることになっている。裁判員法3条)
(平成20年6月)