● 裁判員制度に対する逆風について考える
安原 浩 (メンバー,松山家裁所長)
 いよいよ裁判員制度の実施まであと2年を切り,来年の夏頃からは模擬ではなく実際の裁判員候補者選定のための準備作業を裁判所が始める,という差し迫った時期になってきました。

 全国各地の裁判所で繰り返し行われてきた模擬裁判の試行により,裁判員裁判の進め方の具体像も次第に明らかになり,準備は着々と進んでいるように見えます。

 しかし,これまで全く経験のない制度の導入であるため,依然として不安感や抵抗感が市民や法律家の間に根強いことも事実であろうと思われます。

 しかし,そのような漠然とした感覚は,ことの性質上ある程度やむを得ない現象と割り切る必要もあるのではないでしょうか。

 これまで慣れ親しんだ制度の大変革に全く戸惑わないという実務家は少ないでしょうし,刑事裁判にすすんで参加したいと考える市民が圧倒的少数であることもある意味自然な現象と思われます。

 陪審制度の国でも,陪審員になりたくないと考える人が多いのが実情でしょうし,またそうだからといって陪審制度廃止の意見が多数となることもない,とも聞いております。 つまり,心情として,なんとなく改革に積極的になれない,あるいは自分はできたら裁判員になりたくないと思っていても,裁判員制度の趣旨自体は理解できると多くの方に思っていただけるか否かが最大の課題といえるでしょう。

この課題をクリアするには,今の刑事裁判の現状をどうしても改革する必要があり,裁判員制度がその改革の第一歩となり得る,との理解が広まる必要があると感じています。

 ところで,わたしの個人的感覚かもしれませんが,実施が迫ったこの段階で,かえって公然たる反対論が強くなっているように思われるのですが,皆さんはどうご覧になられているでしょうか。

 たしかに,実務家や市民の間に漠然とした不安感や抵抗感が依然根強いため,実施が近づくにつれ反対論が勢いづくのも無理からぬともいえます。

 しかし,先に触れましたように,そのような漠然とした不安感の存在と制度是非論は全く別に論ずべきで,逆風の論調がそのような雰囲気に便乗して,裁判員制度に反対する論陣があたかも国民の支持を得ているように振る舞っている点には,強い危惧を感じています。 

 私は,今の刑事裁判が,死刑事件についてまでえん罪を生んだ前科があり,調書が法廷に氾濫する裁判になってしまい公判審理が形骸化している,刑事裁判官が有罪慣れしてしまっているなどの指摘は,事実に基づく批判として受け入れざるを得ないと考えています。

 そうすると,そのような刑事裁判はどうしても改革する必要があることは明白ですし,そのためには,証拠開示の徹底した拡大,弁護権の実質的保障,取り調べの可視化,あるいは可視化されない供述調書の不使用,裁判主体の変更などの改革が必要ということになります。

 さて,上記のようないろいろな改革命題のうち,最も重要といえるのは,裁判主体の変更の点です。

 なぜなら,現行の刑事訴訟法でも供述調書は厳しい要件をクリアしないと証拠として使えないと明確に定められているにもかかわらず,実際の法廷では,供述調書は証拠としてどんどん採用されている実情からも明らかなように,どこの分野でも同じですが,どのような制度設計をしても,運用する主体如何によって,良くも悪くもなるのが現実ではないでしょうか。

 裁判員裁判では市民6人,裁判官3人が裁判主体となります。

 たしかに,専門家たる裁判官のリードの仕方によっては,6人の市民裁判官が単なるお飾りに陥るおそれは否定できませんが,司法制度改革審議会で熾烈な人数争いの激論があつたのはご存じの方の多いと思います。それは,逆の可能性,すなわち裁判員が裁判官の意見に必ずしも同調しない可能性があり得ると審議会委員が考えたからこその議論だったのです。

 議論の結果,裁判官の倍の数の市民裁判官が適当ということになりました。

 昨今,裁判所が評議の在り方に非常に気を遣う状況にある,あるいは検察庁が可視化の一部試行や供述調書を証拠申請をしないことの検討を始めたなどと報道されているのは,これまでの刑事裁判のやり方を踏襲したのでは,6人の裁判員の説得が困難かもしれないということを単なる可能性としてではなく,法律実務家として現実の問題として考えるようになったからではないでしょうか。

 刑事訴訟法施行以来,60年近く,全く実務的な改善のなかった分野に次々と改革の兆しが生じているのは,6人の存在の大きさにほかならないといえます。
また,証拠開示,弁護権の保障,客観的証拠と証人中心の証拠構造など,学説によっては裁判員法による制度改正は,甚だ不十分と評価されるかもしれませんが,まがりなりにもそれらの分野に進展があるのも6人の裁判員の存在故といっても過言ではありません。

 その意味で,裁判員制度における6人の市民裁判官の存在は,すでに実施前から刑事訴訟の改革に隠然たる力を発揮していると評価できます。

 市民が司法の一翼を担おうとしている点で,これまで立法,司法,行政についてプロに任せきりにして,非難だけはしっかりするという「お任せ民主主義」からの脱却の糸口が裁判員制度には見えているとも言えるでしょう。

 もしそうであれば,条件が完全に整備改革されていないからとか,裁判員が裁判官に圧倒されるおそれがあるから,とかいう反対論の論拠は,現実の重い扉を実際に動かしている6人の裁判員の力の大きさを過小評価している,といわざるを得ません。

 現在は,6人の裁判員がより市民感覚を生かした力を発揮できるようにするためにはどうしたらよいかを議論するべき時期にきていると考えるのですが,いかがでしょうか。
(平成19年10月)