● ある疑問に対して
伊東武是(神戸地裁姫路支部) 
疑問

 50歳代の男性から,当HPの「ご意見・ご感想」欄に,次の意見をいただきました。

 「自白と刑事司法について考える」の中で「素人である裁判員に,あの長大な調書類を読んで貰って判断を求めることは無理である。ましてや,前後に微妙なニュアンスの違いのある自白調書を読み込んでそれなりに理解し,これと公判の否認供述とをさらに対比して,はたしてどの供述が信用できるのかという判断(従前の裁判官による判断の方法)は もはや不可能に近い。これまで,刑事裁判官がやってきた自白調書に向き合ってきた姿勢方法は裁判員制度では通用しなくなる。」このような記載が点在するが、職業的裁判官ならば、錯綜する自白調書から正しい供述を選択できるが、裁判員では無理だといった意見を職業的裁判官が持っているのに驚かされる。裁判員制度導入は、市井の人々の判断力を信頼し、法曹3者のみで行われていた裁判に広く市井の人々の感覚を取り入れる為になされるはずでは? 職業的裁判官のみが正しい判断ができるといった意識を職業的裁判官が持っている限り、裁判員制度が正しく機能しないであろうし、"市井の人々も参加した判決である"といった職業的裁判官の誤判の責任逃れ等の言い訳に利用されるだけであろう。(訴訟指揮や犯罪の有無・量刑の合議での職業的裁判官のリーダシップ等を考慮すると)」



伊東から

 当HP(オピニオン欄)掲載の私(伊東)の論稿「自白と刑事司法を考える(1)」に対するご批判です。ご指摘の点で,裁判員の能力を低くみる誤解を与えたことは,私の不徳の致すところです。裁判員に対する信頼に十分でないものがあるのだろうと反省させられました。

 只,自白調書に代表されるような,紙の上に書かれた供述の信用性を判断することは,誰にとっても困難なものです。密室の取調室で作成された自白調書には,誘導や強要によって供述させられたものではないかとの疑いが常につきまといます。その中で,職業裁判官は,日々取り組んでいる沢山の事件を通して多数の調書を読み込み,少なくとも経験を積んでおります。そこでは,警察の取調べがどんな雰囲気で行われるか,被疑者はどんな心境で取調べに対処するのか,取調状況に関する警察官の証言はいつも真実を述べるとは限らないといった,多数の事件経験を積んでようやく分かりかけてくる事情にも,いくらか通じております。宝石や絵画の鑑定人になるには,おそらく,理論だけではなく,沢山の宝石や絵画を実際に見て修行しなければなりません。自白調書の信用性判断には,それと似た面があるように思われます。もちろん,ベテラン裁判官も,嘘の自白調書を誤って信じたがために誤判をするということもないとはいえません。ベテランの絵画鑑定人が贋作にだまされるのと同じことです。

 そもそも,そのような自白調書(密室における取調べでの供述)の信用性判断を,審理と評議の時間に限界のある(ひとつのことに何日もかけるわけにはいかない)裁判員裁判で行うことは(おそらくベテラン裁判官にとっても)無理があります。現在のような自白調書を重視する裁判が,裁判員裁判でも同様に行われるとすれば,裁判員裁判は,その本来の目的を達することが困難な事態になります。

 裁判員裁判を中心とするこれからの刑事裁判において,そのような難しい判断をしなくていい証拠調べの方法はないものか,すなわち自白調書をなくす,少なくとも減らすことができないか,というのが私の「自白と刑事司法について考える」論稿の趣旨でありました。取調べを可視化する(ビデオや録音テープで取調べ状況を再現できるようにする)必要があるとの意見もそこに理由があります。

 裁判員裁判では,そのような自白調書(文書による供述,紙に書かれた証拠)をできるだけ少なくし,公判廷での生の証言,供述,物的証拠を中心として審理できるように努力しなければなりません。そうした生の証言,供述等の信用性を判断する能力は,裁判官と裁判員との間で差はありません。むしろ,様々な社会経験を積んだ市民は,健全かつ常識的判断において,職業裁判官以上に優れた面があることを私自身は確信しています。そうした裁判員が加わることで,裁判がこれまで以上に信頼のできるものになると期待しているのです。
(平成17年12月)