● 「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」を読んで

ミドリガメ(サポーター)

 最近「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」(堀川恵子著、講談社)読んだので紹介方々感想を述べたいと思います。

 これは強盗殺人、強盗等の事件で死刑判決(1審判決昭和41年11月28日、最高裁で確定)を受けた死刑囚Hから、捜査検事や控訴・上告審弁護人宛の手紙を中心に、関係者のインタビュー等の取材によって構成したドキュメンタリー作品です。この著者はフリーのドキュメンタリーディレクターで、私は読んでいませんが「死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの」などの著作もあります。

 私は、この本を書店でふと手にして購入しました。事件自体は初めて知りましたが,当時捜査検事の土本武司教授をはじめ、1審東京地裁八王子支部では樋口和博裁判長(「峠の落とし文」などの著作がある。)、泉山禎治裁判官(現弁護士)、東京高裁樋口勝裁判長、小林健治弁護士(元東京高裁裁判長)など,私も名前を知っているしかもまじめな方々という強い印象のある法律実務家が複数関与していて、その面からも興味を持ちました。

 本件は、短刀を持って民家に強盗に入った被告人が声を上げる主婦の胸部、頸部を短刀でめった刺しにして殺害したという強盗殺人のほか窃盗、強盗(計3件)という凶悪な事件ですが、被告人Hは、まだ二十歳を過ぎたばかりの青年(1審判決時23歳)であり、極めて貧しい家庭で育った気の毒な生い立ち、素直な取り調べ態度、法廷態度など反省の態度もみられたこと、死亡被害者は1人であることなど、最近の基準(相場)で考えると、改善可能性があるとして死刑を選択されない可能性もかなりあるケースだと思われます。しかし、捜査段階や1審ではほとんど争うこともなく事実を認めていたためか、超繁忙だった同支部の審理日程の中少ない期日ですんなりと当時の量刑相場によって死刑判決を受けたものと思われます。

 著者がこの被告人の事件を取材するようになったのは、土本教授に対する別の取材の際に、同教授がこの事件のことをふともらし、被告人Hからの手紙なども著者に見せたことがきっかけであったということです。土本教授は,日頃の厳しく強気に見えるに発言に似合わずというと失礼ですが、1審判決後に、被告人Hの手紙を読んで、同被告人の良い情状を見落としていたのではないかという、迷いを抱くようになり、判決確定後に上司に対し死刑囚Hの恩赦の相談までしたという特異な事案であることに、強い関心を持ちました。
 判事を退官したばかりで、控訴審の国選弁護人を引き受けた小林健治弁護人も、被告人との交流を深める中で、被告人Hの人間性に惹かれたのでしょうか、控訴審、上告審と献身的な活動をしたけれども1審判決は覆りませんでした。

 死刑基準、教育刑ということや、1審弁護人の活動については、資料が乏しかったのでしょう、著書には余りでてきませんが(刑事確定訴訟記録の閲覧が、一般にはプライバシーの保護という理由で非公開に近い扱いであり、事件関係者の土本教授にしても容易ではなかったことを知り驚きました。)、被告人が自己主張の少ない人である場合、国選弁護人が犯行当時の心境を含め情状事実を発掘することが容易でなかったであろうこと、検察官、裁判官における情状事実の評価の仕方(当時の被告人の心情への理解の薄さ、「犯罪日記」を書いていたことの悪い評価などが死刑判決につながった可能性がある。)、特に短期間の審理で真相に迫ることの困難さなどについても考えさせられました。地味だがすばらしい著作だと思いました。

 以下、付加して若干の個人的感想を述べることにします。
(1) まず,この本を読む限り、1審は,次の点で被告人の心情に対する審理が足りず,そのために証拠の評価が浅薄だったとの批判を受ける可能性があると思います。1点目は,被害者を殺害をした事情と心理,2点目は「犯罪日記」を書いた気持ち,3点目は被告人の生い立ちなどについての同情の余地と改善可能性についてです。
 それは,当時の同地裁支部は事件が輻輳していたために,このような争いのない事件に時間をさく余裕が乏しく,審理期間が短かったためではないかと推測します。私の知る限りでは,同裁判所支部は,本件裁判の10年後の記憶ですが、そのころ私は別の多忙な支部に勤務していました。八王子支部は裁判官は増えていたと思いますが、なお多忙を極めていました。私の記憶に残っていることは,刑事単独事件の審理時間が一般的に私のそれの半分ほどに短く,実刑判決でも即決で行われていると噂で聞いたことです。
 また,これに加えて,特に公訴事実に争いのない事件だと、検事の意見への批判力が乏しくなっているということはないだろうか。それは、被告人が捜査段階で自白してその後も争っていないため、裁判官には、基本的に検事の調べに信頼感が強く,検察官の被告人に対する見方への批判的視点が鈍っているような気がするからです。こういう時ほど,量刑要素に関する弁護人の鋭い主張が必要だったように思います。国選弁護人に,十分な熱意がなかったとすればそれが大きく響いたのかもしれません。

(2) 被告人Hは,仕事は転々としていたといわれるけれども,本件の直前に勤めていた板金塗装の町工場では仕事を始めると夜遅くなっても仕事が終わるまで働き,仕上がりも良かったので注文も増え雇主の信頼も厚かったということです。また,マッチ棒細工の趣味では,被告人がマッチ棒で1メートル以上もある大きな船などを作製しており、これを弁護人が苦労して控訴審の法廷に持ち込んだということです。このように被告人は極めて器用だったし,またそれだけの集中力もあったようです。小林弁護人や土本検事への手紙の内容からは,人の気持ちを思いやり,理解することもできた人物だと思われました。
 昭和41年頃に被告人がもらっていた月収4万円は,小林弁護人の報酬が1万1000円余り、高卒男子の初任給の平均が1万7000円余り、その直後ころの判事補任官者の初任給が3万円くらいでしたから,若い工員としては決して少ない収入ではなかったでしょう。彼はその中から1万円を母親に渡し,高級腕時計等の高級品を買い月賦の支払いに1万円を当てていたといいます。豪華な品物を買って見栄を張ろうとしたのでしょう。しかし、残りの2万円を何に使っていたのかはよく分からず,被告人が強盗を繰り返すようになった理由が判然としません。母親に対する気持ちも複雑であったようですが,上記の点でも,きまじめな表の顔と犯罪につながる謎の生活との二面性が感じられます。私なら,犯罪日記のこともありますが,当然そこのところから被告人の実像に切り込んでいくと思うのです。審理ではその辺りの究明がなされなかったのかどうか,この本を読む範囲では分かりません。上記雇い主が1審でも証言に立ちながら,被告人に有利な証言が引き出されなかったようで,そのために問題点が浮き彫りにならなかったのでしょうか。被告人と面接をしていたはずの1審弁護人はどうだったのか。いずれにしても,この点が究明されなかったことは残念なことです。「犯罪日記」には「捕まったら自殺する」と書いていたということです。被告人の心情の理解が困難な場合は,当時はまだなかったと思いますが,心理鑑定ということも考えられたかも知れません。

(3) 死亡被害者の人数の点は,当時は,永山判決以後とは異なり,被害者が一人でも死刑になることは少なくなかったということです。しかし,死刑は究極の刑罰ですから,死刑に処するのは,教育刑の限界を超えていて,無期刑では到底足りないと考えられる場合です。ところが,被告人Hの場合は,年は若く,幼い頃からほとんど母の手一つで育っているので、母親も苦労しているが、被告人も苦労していることは明らかです。これをどう評価すべきでしょうか。最近は,若くして不良なのはそれ自体問題だという意見も国民の間では少なくないようですから,議論があるでしょうが,従来は被告人に有利な事情と見られていたのです。しかも、被告人Hは性格的に自閉的で社会適応性は乏しかったようですが、客観的には、上記のような積極面を持っていることが明らかなこと,1審判決以降被告人Hは土本検事や控訴審弁護人に感謝の手紙を送っており,その後手紙の交換が進むにつれて人間的な成長を示していること,判決確定後刑務所幹部から服役態度について高い評価を受けていることなどの客観的事情を見る限りは,改善可能性があると見る余地は充分にあります。問題は,それが1審の法廷に十分顕れていたのかどうかです。控訴審では小林健治弁護人の努力があったので,かなりの程度立証されたと思われるし,合議が割れた可能性も窺えないではないのですが,1審の結論が覆るまでには至らなかったのでした。

(4) 土本検事は、試みて失敗しましたが、判決確定後の生活態度等から改善可能性が認められた死刑囚に対する恩赦の可能性をもう少し広げることはできないものだろうかと思いました。原判決に事実誤認があった場合には再審手続があるのに、現在の法律では、情状評価を誤って取り返しの付かない死刑判決を受けた場合にはほとんど救済の方法がありません。また、逮捕されてから反省し,捜査に積極的に協力したりする被告人もいるのですが、被害者の数が複数で,犯行態様、犯行動機その他の情状が良くない場合に逮捕後の「反省」だけでは死刑判決を免れないことがあるのもまた事実です。皆さんはどう思いますか。

(H23,8,1)