● テレビドラマ「サマヨイザクラ」をみて考えた。
    −裁判員裁判の「よさ」とはなんだろうか。
ミドリガメ(サポーター)
○このドラマを観た人は少なくないだろうが,このドラマは,引きこもり青年である被告人が中年女性3人を殺害したという殺人事件をめぐる裁判員裁判のドラマである。
 被告人の一家は被害者らから集団いじめに遭っていたという背景設定がある(ただし,被告人の家族が,いじめられた事情や,いじめの程度ははっきりと理解できなかった。)。被告人は,地域のいじめ集団の一部である中年女性3名が,被告人の家の前の空き地にあるさくらの木を切ろうとしたことに反発して,女性3名を刃物で殺してしまったと自白した。そして,その付近の土管に父と一緒に住むホームレスの幼い少女が犯行を目撃していたというのである。そこで集団いじめが殺人の動機となる殺人事件であると評議は固まった。しかし,死刑か死刑回避かを決める量刑評議において,裁判長は,このような動機事情は死刑を回避すべき事情として評価できないと断言し,他の誰も反論できなかった。
 そこで考えたが,そのような断定をして議論を封じるのは誤りではないかと思う。集団いじめで,社会的,心理的に追い詰められていることはよくあり,そのためにいじめ被害者が自殺することだって珍しくない。もし,被告人が,そのようないじめが原因で引きこもり,心身のバランスを欠いた状態にあって,さらに犯行直前に加害者らからいじめ被害を受けると感じたときに感情が爆発して殺人行為に至ったと認定できるならば,犯行動機を形成する重大な事情として酌量すべきかどうかは大いに議論すべきかちがあると考えられる(ただし,このドラマでは,後にこのような事実はなかったし,犯人も被告人ではなかったということになるがそれは別論である。)。
 このドラマでは,このような重大な問題点の議論がきちんとなされずに,裁判長の軽薄な断定で済んでしまうのは,残念というほかはない。視聴者にはこれから裁判員になる人も多いであろうことを考えると,この方達に悪影響を与えないか心配である。

○ドラマ「サマヨイザクラ」では,最後にどんでん返しが起こる。被告人は犯人ではなく,身代わりであることが判明するのである。「オタク系」の若い裁判員が,たまたま犯行当日に,ある催しに参加し,記念に写したケータイ写真の中に,被告人が写っているのを発見した。彼は,被告人が第1回公判で自分をじっと見詰めていたのはこのせいかと思い至り,被告人の犯人性に強い疑いを持ち,現場に出かけていくのである。そして,やはり被害者らからいじめにあっていたホームレスの父子が被告人の家の近くの土管に住んでおり,その父が実は犯人だということが明らかになっていく(その父は犯行後行方をくらまし,人知れず自殺していた。)。被告人は,犯人である男性の幼い娘から話を聞いて事情を知ったが,仲良くしていたその娘のために自分が身代わり犯人になることを決意し,娘を犯行の目撃者に仕立てたのである。
 この真相に迫る過程に脚本家の時代感覚の乏しさと,裁判員制度に対する認識の浅さが出ている気がしてならない。実際に無罪判決に至る場合は,ふとしたことがきっかけで検察官の立証に疑いを抱くということはある。そうして記録を見直すと,別の角度から光が当たったように,今まで気付かなかったことが見えてきて,事件の真相に一歩近づくということがある。参考に,私の経験した一部無罪の判決をした事例を挙げてみよう。内縁関係の男女の共謀による3件の窃盗事件で,内縁の夫の事件を担当したが,3件のうち1件だけは特異なものがあった。他の2件は二人がそれぞれの犯行現場に行っていて,女性が盗みをし,二人でこれを売りに行ったことが明らかであった(それでも内縁の夫は,窃盗の共謀には加わっていないと争った。)。しかし,問題の1件については,女性は,ある薬屋の店頭に飾っていたマスコット人形を別の男性から預かっていて,後日内縁の夫と一緒に売りに行ったに過ぎない,その男性の名前は言えないと言い張り,男性被告人は,自分はその件には全く関係ないと一貫して弁解していた。検察官は,女性が内縁の夫以外に男性関係はないと述べていたことを重視し,他の事件と同様に二人が一緒に盗んだものである主張したが,この1件だけは他の事件と違うなと感じた。それがきっかけになって事件を見直すことになった。女性を証人として調べ直し,なぜ預かった人の名前を言えないのか,そのために内縁の夫が有罪になってもいいのかと追及し,結局この1件だけは内縁の夫は関与していない可能性があるという心証をとって無罪にしたのである。
 このドラマでいえば,被告人がなぜ3人の中年女性に殺意を抱いたのか,3人の女性を殺すまでの理由があったのか,凶器の刃物はいつ準備したのか,などということから,疑問を持って事実関係を見直し,果たして被告人が犯人なのだろうかと疑問を持つというのが自然な展開なのであり,もし被告人がやったのが本当だとしたら責任能力も疑ってみるという発想もあるのではなかろうか。このドラマでは,真相発見のきっかけは,裁判員の法廷外の個人的な知見であり,偶然に過ぎていかにも作り物然としている。ドラマだからやむを得ないことはわかるが,現実にそのようなことは起こらないことが分かっている視聴者には,真相解明は難しい,自分には無理だという印象を強めるだけなのではないか。
 考えてみると,裁判員が多様な社会経験からふと抱いた疑問を,裁判員と裁判官みんなが大切にして考え意見を交換することこそが,裁判員制度の真髄である「裁判員と裁判官の協働」として最も重要な場面なのではないのか。裁判長が自己流に物事を断定して議論を封じたり,スーパーマン裁判員が「場外」で大活躍するのは裁判員制度がめざすものとは対極にあるものである。
 今は裁判員制度の発足という大事な時期にある。せっかく裁判員裁判ドラマを作るなら,制度を単なる背景や刺身のつまにするのではなく,もちろん批判的視点でもいいから,しっかりと裁判員裁判の本質に焦点を当てて制作して欲しいものである。
 それにしても,裁判員裁判ドラマでは,裁判長はなぜワンパターンに裁判員に意見を押しつけるような態度をとるのだろうか。もしそれが国民一般の裁判長に対する認識の一端を表すものであれば,その認識を改める努力をする必要があるのではなかろうか。
(平成21年8月)