1 自白追及の現状
特に,その人に対する犯罪の嫌疑が相当にあり,犯人ではないかと疑われるのだけれども,決め手となる客観的な証拠がない,とても,これでは裁判に持ち込めないという場合,捜査官による自白追及は,いやが上にも熱を帯び,執ようになり,過酷にもなりがちです。身体拘束の期間を利用して,それも20日間という制限があるわけですが,毎日毎日時には夜遅くまで必死に自白を追及します。
そうした追及が効を奏して,ついに自白を得ることができれば,警察の大勝利です。その自白の中から決定的証拠を発見した場合,たとえば,殺人事件で,その被疑者を追及することで,死体を埋めた場所を聞き出した,実際にその場所から死体を見つけることができた,こうなると,たとえ誰も目撃者のいない殺人事件でも,その被疑者が犯人であることはほぼ確実ということになります。こうした自白追及の成功例は,まさに犯罪捜査の醍醐味と言えるのでしょう。こうした展開が期待できるだけに,警察は自白追及こそ,犯罪捜査の要とみることになります。
従前から,特に冤罪事件とからんで,自白追及の弊害が色々言われてきましたが,このような劇的展開があって,犯罪捜査が一挙解決に繋がる場面が決して少なくないことからすると,捜査機関が,自白追及をそう易々と手放したくないのも当然と言えば当然です。
しかし,追及を受ける側からは,耐え難いことです。足利事件では,菅谷さんは,逮捕当初,自分は犯人ではないと訴えたが,警察官から,髪の毛を引っ張ったり蹴飛ばされたりのかなり過酷な取り調べを受けたと記者会見で述べていました。菅谷さんは,そうした警察・検察を「絶対に許さない」と言っています。当然の心境でしょうね。
そして,驚くべきことに,菅谷さんは,裁判になった当初でも,まだ,警察捜査の恐怖感を残しており,公判法廷でも,自分は犯人ではないという主張ができず,罪を認める態度をとっていたようです。警察における取調べの過酷さが,いかに恐ろしいものか推察するに余りあります。
2 自白を採用するには前提がある(自白の任意性)
さて,裁判となり,公判審理が始まると,捜査段階の自白を採用するかどうか,その自白が信用できるかどうかが,深刻な争点になる場合があります。客観的証拠が少なく,有罪認定のためには,自白が決定的に大きな意味を持つという事件の場合は,往々にして,そのような展開となります。
そのような事件では,自白を証拠として採用するためには,その自白が任意になされたものであることが必要です。自白には,任意性が必要なのです。
ここで「任意性」ということをあらためて説明しておきますと,捜査官が犯人と疑われる人を追及して自白を得た場合,その自白をまとめた自白調書を裁判の中で,証拠として提出しようとします。公判で否認する被告人に対して,他に決定的な証拠が薄い場合には,検察側には,この自白調書が何よりも重要な証拠となります。
しかし,裁判所は,この自白調書を採用するためには,大事な前提があります。その自白を生みだした捜査官の取調べにおいて,暴力的手段,脅迫的手段,その他強圧的な手段が執られなかったかを点検する必要がある,ということです。そして,そうした無理な取調べがあって,その結果,この自白に至ったという場合は,この自白は被疑者が自発的に喋ったものではない,任意にしゃべったものではない,つまり「任意性がない」とされ,これを証拠をして採用してはいけないということが法律で決まっているのです。
そうした自白を安易に採用していると,そこに虚偽自白が混じっている可能性があり,裁判官の認定を惑わすことになる。何よりも,法治国家として,そのような人権無視の捜査手法を許さない,そうした厳然たる態度をとる必要があるからなのです。
この任意性のチェックは,たとえその自白の内容自体が真実であっても,ここが大事なところです。内容が例え真実であっても,任意性がない場合には,これを証拠にとってはいけないということになっているのです。
3 公判廷での攻防
従前の裁判の場合,自白の任意性が問題となる裁判では,被告人は,たとえば,法廷で,取調べ警察官から,暴行や脅迫など強圧的方法で取調べを受け,やむなく,自分は嘘の供述をしたなどと述べます。そのとおりだと,その取調べ方法は任意性がないことになって,その自白調書は採用できないことになります。そこで,検察官は,その取調べ担当の警察官を証人として呼んで,そのような乱暴な取調べはしなかった旨の証言をさせます。
その警察官証人は,決して,強圧的な取り調べをしていない,諄々と被告人の良心に訴える話をするうちに,被告人は,突然涙を流しだし,自白を始めた,というような証言をするでしょう。弁護人が,「いやそうではないでしょう。貴方は,認めないと,お前の職場の上司や女房も引っ張ってくるぞ,と脅したでしょう。」「被告人を壁際に立たせて,耳元で,嘘つき,悪魔,と怒鳴ったでしょう」,「自白をしないと死刑になるぞ,と脅したでしょう」などと反対尋問で質問しても,警察官は,只,「いいえ,そんなことは,決してしていません」と答えるのは通常です。法廷での取調べの状居に関するやりとりは,水掛け論に終始します。
従前の職業裁判官による裁判では,私を含めて,かかる水掛け論があった場合,警察官の証言を信用して,過酷な取り調べはなかったか,あるいは,多少はあったかもしれないが,被告人が虚偽自白をさせられるほどのものではないなどと理屈つけて,その自白の任意性を肯定することがほとんどでした。
従前の職業裁判官による裁判でも,自白調書を一旦採用はするけれども,その自白内容は信用できないとして,無罪を言い渡すことは,もちろん,少なくありませんでした。只,任意性の段階でチェックすることはほとんどなかったと言っていいと思います。
ここが肝心な所です。これまでの職業裁判官は,私も含めて,捜査の実情に理解を示し,従前の捜査手法には,少なからずの事件で任意性が疑われるものがあったにもかかわらず,捜査官に同情し,理解を示して,「任意性」ありと判断してきたのです。自白調書を「安易に」採用してきたのです。これでは,捜査官の取調べの強圧的手法がなくならないのは当然です。そうした扱いの中で,いわゆる冤罪事件が起こってきたのです。
4 取調べ状況を録画すべき(可視化の問題)
このような裁判における攻防を水掛け論に終わらせることがなく,取調べ課程を録画しておいて,過酷な取調べがなかったかどうかの後の検証に耐えられるような証拠を残しておくべきだ,という議論が高まってきました。これが取調べの録画,いわゆる可視化の要求であります。
捜査機関は,取り調べを全面的に録画することに強く反対しています。その反対の理由の大きな点は,先程述べたような取調べの実情にあると思われます。録画をするということは,頑固に口を割らない被疑者に対しても,強圧的な取り調べができなくなります。なぜなら,その強圧的取調べ課程が録画によって明らかにされるなら,そこから引き出された自白は「任意なもの」ではないとされ,その自白が採用できない,証拠に使うことができないことになるからです。せっかくの自白が使えなくなっては意味がありません。
捜査官側にとっては,取調べの経過は密室内の秘密状態に保っておきたいのです。捜査官側が,全面録画に強く反対する根拠は,ここにあります。(捜査側は,その事を明らかに主張はしませんが)。穏やかな紳士的な取調べが行われているのであれば,録画に反対する理由がありません。
5 裁判員裁判ではどうなるか
裁判員裁判は,この被疑者全面録画が実現できないままにスタートしました。それでも,捜査段階の自白の信用性が,その人の有罪無罪を決める要となるという事件は,今後もしばらく続くことでありましょう。
裁判員裁判では,どうなるでしょうか。
この点,大阪の刑事弁護の第1人者であるG弁護士が,ある雑誌の中でこんなことを述べています。
客観的証拠が薄く,自白が決定的となりそうな事件の場合,弁護人は,予め,捜査機関に,取調べ状況を全面的に録画するように申し入れておく。そうしても,捜査官は,当面は,全面録画はしないでしょう。
しかし,裁判員裁判が始まり,自白の任意性,すなわち,強圧的な取調べの有無が問題となり,警察官証人が取り調べられた段階で,弁護人は,裁判員・裁判官に次のように訴える。
「私は,取り調べが始まる前に全面録画をするように申し入れをしておいた。全面録画は容易に可能であった。にもかかわらず,全面録画をしない。先ほどの警察官は強圧的は取り調べはしていない,と証言しました。裁判員の皆さん,裁判官,誰がそんな一片の言葉を信用できるでしょうか。後ろめたくないのなら,堂々と録画をしておけばいいのに,これをしないでおいて,言葉だけの警察官の証言がどうして真実だと言えるのでしょうか。」と諄々と迫る。
以上のようにG弁護士は主張します。これからは,このような弁論が増えてくることは必然です。
そのような弁論を聞いて,裁判員は,強圧的な取り調べがなかったという心証がとれるでしょうか。これまでのように,変に捜査の実情に理解を示して,捜査官証言に軍配を挙げがちであった従前の裁判官とちがって,裁判員は,捜査にも素人ですし,捜査官に義理立てする必要もありません。捜査官の説明が十分説得的でない場合は,合理的疑いがある,信用できないということで,任意性を否定する判断に傾くのではないでしょうか。
また,職業裁判官の側でも,これまでのように,安易に捜査官証言に軍配を挙げることを躊躇するでしょう。なぜなら,裁判員に説得できないからです。密室で録画もしないような取り調べについて,警察官証言が信用できるという意見を裁判員の前に表明することに恥ずかしくならないでしょうか。裁判官の側も,これまでと違って,任意性の判断を厳密にせざるを得なくなります。
かくして,任意性を否定する判断が多くなることは必然です。自白調書は,証拠となる資格が与えられず,採用されないケースが増えてきます。
裁判員裁判の進展の中で,こうした傾向が増大して行けば,警察官は,全面録画をせざるを得なくなるが,そうすると,迫力のある取調べができない,結局,自白が得られない。警察官は,ジレンマに陥ることになります。
結局,捜査官は,自白に頼る捜査手法に見切りをつけざるを得なくなる。裁判員裁判は,こうした流れを生むことになる,私は,そのことに期待をしています。
6 客観的証拠中心の裁判へ
自白の必要な場面で自白が得られないということは,従前の自白中心主義の刑事司法の大転回となります。
捜査官は,自白に変わる客観的証拠を収集することに努力せざるを得ません。目撃者などの第三者証言の確保はいうまでもありません。指紋,毛髪,足跡,DNA鑑定など,足利事件では,最近,DNA鑑定の正確性が飛躍的に高まったことが報道されています。信頼性を増したDNA鑑定が活躍する場が広がって,犯行現場に残された犯人の身体からのかすかな剥落物から犯人を追跡することが可能となってきています。また,自動車事故について,自己の衝突直前の運転態度が分かる記録装置を車に装着することも近い将来実現するでしょう。街頭でも,監視カメラが犯行の一端を記録している事件が増えています。自白に替わって,動かしがたい証拠を集める,そこに重点を置く捜査手法はさらに進化せざるを得なくなります。
自白がとりにくくなると,目撃者のいない密室犯罪とか,組織犯罪で上の者を訴追することが難しくなることが考えられます。これまでヤクザの親分を訴追するためには,子分を追及して口を割らせていたのです。かなり厳しい取調べが行われていたのでしょう。そうした方法による取調べができないとなると,組織の上の者を訴追することが困難になります。
そこで,アメリカなどでは,刑事免責の制度が使われます。子分の者に「親分の関与事実を証言してくれるなら,お前の刑を軽くしてやろう」と提案して,口を割らせる制度です。いわば取り引きです。密室犯罪で,相当な嫌疑はあるが,有罪までは持ち込めない被疑者に対して,「自白すれば刑を軽くしてやる」と持ち込む司法取引もあります。
こういう取り引きの制度が,わが国にも必要になってくるかもしれません。おとり捜査も認めようということになるかもしれません。
自白中心の裁判は,ある意味では,情緒的で感動的な裁判でもありました。犯人の犯行に至る詳細な自白と反省の弁は,裁判を極めて人間臭くしていました。自白があってこそ,裁判は,そういう様相を示すことができたのです。被害者や社会一般の真相解明の要求も,当初は,自白したくなかった犯人を追及して,自白に追い込む中で,その重い口を開かせたがために,可能となったいたのです。
自白追及がなくなれば,自ら進んで罪を告白する犯人以外の事件では,動機や犯行の細かいいきさつなどは,不明のままに残ります。現場に残された犯行の痕跡などから推測される事柄しか明らかにならないということになります。その動機も,怨恨か,物取りか,無差別攻撃かといった大雑把なもので我慢するほかないということになります。
しかし,それはやむを得ないことです。
裁判は,骨格部分だけ,核心部分の解明で我慢しなければなりません。自白追及をさせないということはそういうことであります。
捜査,裁判は,科学的,客観的,なによりも人権擁護に配慮したものでなければならない。
それは,歴史の必然であり,進歩であると思います。
わが国の刑事司法は,この裁判員制度を契機に,そうした刑事司法の歴史の新たな第一歩を踏み出したと言えると思います。私は,この歴史の流れに期待し,皆さんとともに,変化を見守っていきたいと思っております。
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