● 故井上治典先生の素顔・さまざま

赤坂溜池法律事務所
麻 田 恭 子

 私が、たくさんの裁判官の方々に出会うことができたのは、故井上治典先生のおかげだということは以前書きました。

 私は、大学法学部ではじめて民事手続法(民事訴訟法)に出会ったとき、パズル化した数学の問題を解いているような感覚にとらわれ夢中になりました。しかし、私の周りには、「民訴=眠素でしかなく、まったくおもしろくも何ともない」という学友の方が多かったようですし、ある裁判官からは、「手段として学ばなくてはならないのは理解できるが、学問として面白いという感覚は私には理解できないなあ……」と言われたことがあります。でも、私は、民事訴訟法=民事手続法に関する論文を読むたびに、新たな秘密のパズルを解いたようにワクワクし、益々、その魅力に取り憑かれていきました。
 そんな中、ある時、井上先生の「手続保障の第三の波」という論文にで会いましたが、読みながら論文の中に吸い込まれていくような感動と、頭の中がひどく熱くなるような衝撃を覚え、何度も何度も読み返しました。ロマンを感じた……という感想をよく聞きますが、私にとってロマンを感じるには難解すぎる論文でした。
 ここで私が第三の波について論じるまでもないことですし、そんな能力もありませんので、井上理論に関する話はここで止めることにします。

 井上先生は、大教室で学生に向かい、「様々な分野のなるべく多くの本を読むように」と機会があるごとに話されていました。曰く、「よい法律家になるためには、たくさんの経験を積み、色々な人の立場を理解することが必要だ。しかし、人間はそれほどたくさんの経験を積むことはできない。だから、恋愛小説でもサスペンスでもノンフィクションでも、とにかく何でもいいから、心を開いて読むことによって豊富な疑似体験をすることができる。勉強ばかりしていては良い法曹にはなれないし、法曹でない職業に就くにしても多くの経験は是非必要だ!」。なんと的確で含みを持った指摘だったでしょう。
 井上先生は、ご自身の言葉通りよく本を読んでおられました。大きくて重そうなカバンを開けると法律関係の本は勿論必ず入っていましたが、それ以外に、時代小説・外国人作家の作品も含めた話題作・ノンフィクション・将棋の本等々、たまには、週刊誌やスポーツ新聞まで入っていました。そして、弁護士同士で事件の打ち合わせを行っている中、ちょっと何かを考え込んでいると思ったら、突然、カバンから民事手続法関係の分厚い本を取り出し本の中に入り込むかのように考え込んでいらしたり、酒席でも、突然眼光が鋭くなったと思ったら、専門書を取り出して読み始めしばらく没頭していたり、それでも、井上先生の頭の中には、その間の同席者の会話内容がしっかりと刻み込まれていたのですから……、一体どんな構造の脳をお持ちだったのでしょう。

 井上先生が弁護士活動をなさっていた期間はそれほど長くありません。だからこそ……なのかもしれませんが、勝訴に向けて非常に斬新なアイディアを考え出されました。逸話は数々ありますが、ある名誉毀損事件への取り組み方は、特に鮮明に私の記憶に残っています。
 某週刊誌に、世界的に有名な建築家△川○夫氏がデザインした橋について、「△川○夫、100億円恐竜の橋に市民の大罵声」というタイトルの記事が掲載されたことがあります。おおよその記事内容は、@ 某所に△川○夫がデザインした橋があるが、地元住民はそのデザインにつき、恐竜のようだ、周りの景観と調和していないなどと批判している、A △川○夫に橋の設計を依頼したため総工費は当初の予算を大幅に上回り100億円もかかった、B 地元住民は、奇抜なデザインの橋など作らず病院や図書館を作るべきだったと非難をしている、などというものでした。そして、その記事を書いた記者は、詳細な現地取材を行ったとも記載してありました。怒った△川○夫氏は、週刊誌とその出版元を被告として名誉毀損事件を提起したいと希望しましたが、長年、弁護士活動を続けている多くの弁護士は、「これは訴えても勝てない」と予想し、なかなか引き受け手がいませんでした。
 しかし、井上先生は、「これは勝てる」と言い切り、結局、私の勤務先事務所の加地修弁護士と共に代理人を引き受けました。のちに、井上先生と加地弁護士は、同じ事務所で弁護士活動をするようになりましたが、その事件を引き受けた時点で、加地弁護士は赤坂で開業しており、井上先生は立教大学近くの一室を事務所として弁護士活動をなさっていました。
 事件を引き受けると決まり委任状を受け取った日の夕方、加地の事務所を訪れた井上先生は、椅子にゆっくりと座ることなく、問題の週刊誌を片手に、歩き回ったり、窓の外を眺めながら煙草を吸うなど落ち着きのない様子でした。加地弁護士は、机に向って週刊誌の記事や判例などを読みながら、静かに筆を走らせていました。時が経ち、夜遅い事務所の中に、井上先生が歩き回る靴音だけがするようになっていましたが、少しすると、井上先生は、加地弁護士と私に聞こえるように、そして私を見ながら唐突に、
 「これは、現地調査に行かんとあかんなあ。アンタ、明日から現地に出かけて、この橋が地元でどんな評判なのかアンケート調査して、あんたの目で、橋が恐竜みたいに見えるかどうかも見てきてくれんか。それから、本当に建築費が100億円もかかったのかどうか、どういう経緯でそうなったのか確かめて来てくれんかなあ?」
 と言い放ちました。加地弁護士はびっくりし、
 「井上先生、彼女は私が雇っているんですよ。私や彼女にも予定がありますからねえ、そんな勝手に、よその事務所の人間を使わないでくださいよ。ねえ、どうやって訴状を組み立てようとしているんですか。私も考えていることがあるので、まず一緒に話し合って方針を決めましょうよ」
 と諭すように言うと、井上先生は立ったまま、
 「罵声というのは、ののしりさわぐ声のことや。 だから大罵声というのは、ののしりさわぐ声が渦巻くようにたくさん聞こえてくるという意味になる。先ず現地に行って、それが事実なのかどうか調べて来んことにはどうしようもないやろ! 加地さん、アンタなあ、麻田さんがどこの事務所のスタッフかなんて言うてる場合じゃないやろ。彼女しかおらんじゃないか、現地に行くのは!」
 深夜まで打ち合わせは続き、結局、私は合計3回現地に出向くことになりました。先ず一人で出かけて下調べをし、次に事務所のスタッフら5人と一緒に出かけて橋の近く・河原・橋の上などで1000人近くに橋に関するデザイン性の評価・印象・その他に関するアンケート調査を実施し、最後は加地弁護士と共に市議会議員に面会したり市議会議事録を閲覧したりしました。その結果、地元住民や近隣の住民の多くは、問題の橋を美しく芸術的だと高く評価しており、歩道を広く取ったその橋の上を散歩したり、近くの河原でバーベキューをして楽しんだりしていることが明らかになりました。また、市議会議事録の閲覧により、△川○夫氏がデザインしたために建築費が膨れ上がったのではなく、先ずは市の象徴になるような橋を作ろうという市議会決議があり、その予算が決められ、それに従う形で△川○夫氏が橋のデザインをした事実が判明しました。

 私は、一審の証拠調べで、宣誓の際に自分の名前を間違え原告名を名乗ってしまうほど緊張しながら、主にアンケート結果についての証言をしましたが、井上先生に、「アンタが自分の名前を間違ったとき、裁判官も傍聴人もみんな笑っとったわ。まったくアンタみたいな人、始めてやわ、恥ずかしい……。でも、そんなアンタが嘘をついているとも思えんから、ま、アンタの失敗のおかげで、たぶん裁判官の心証が良くなったやろう!」という、何とも言いようがない評価をいただきました。
 名誉毀損事件において、先ず現地を子細に調べアンケート調査をするという発想は、長年弁護士業を営んできた者にはないものだったと思います。
 結局、この裁判は、一審・控訴審・上告審の全てで勝訴し、当時としてはかなり高額な賠償金を受領し、何より四大新聞全国版に、原告の希望通りの謝罪広告が掲載されるという大成功を収めました。

 切れるカミソリのような頭脳を持った井上先生でしたが、他方、非常に純粋でしかも悪戯好き……、子供のような一面もお持ちでした。まあ、悪戯好きで子供っぽいところが、井上先生と加地弁護士の共通点で、だからこそ喧嘩をしながらも同じ事務所で仕事をしてこられたのかもしれません。二人は冗談を言い合い、多くの日の夕方共に酒を酌み交わし、笑い合い、しかし時に激しく口論をして、挙げ句の果てに、二人ともあたかも学校の先生に同級生の告げ口をするかのように、私相手に互いの悪口を告げる電話をしてきました。しかも、井上先生は早朝、加地弁護士は深夜……まったく大変でした(笑)。
 あの頃を思い出しながら、二人とも、失礼ながら本当に子供のようだったと思い出しています。

そんな一面が垣間見られる話をいくつか……。

 全国裁判官懇話会で知り合いになった裁判官の方数人が、第三の波理論について井上先生とじかに話をしてみたいとおっしゃったのがきっかけで、ある日曜日の午後、立教大学の法学部長室で勉強会を開いたことがあります。議論が白熱化している中、チラチラと時計を見ていた井上先生は、「ちょっと失礼」と席を立ち、テレビのスイッチを入れました。画面には疾走する馬の姿が……! ええっ、どうしようと思いましたが、数分間、画面に見入っていた井上先生は、馬が走り終わるとテレビを消し、何事もなかったかのように議論に戻られました。勉強会の後、私が、井上先生にそのことを指摘すると、「アンタはいちいちうるさいなあ。そんなこと言うたって、しょうがないやろ。馬が走る時間は毎週決まっとるんやから……」何しろ、無類の「馬」好きでした。

 また、ご自身が大学時代に野球部で投手をつとめていたこともあってか(プロからスカウトされるほどの腕前だったそうです)、立教大学野球部の部長に就任されたときは、たいへんな喜びようでした。弁護士バッチはほとんど身につけない井上先生でしたが、本来なら弁護士バッチが光っているであろう箇所に、立教大学野球部の襟章(バッチ?)をつけ、「アンタ、これ、何だか知っとるか? フフフ……」と嬉しそうにしていらっしゃいました。そんなふうでしたから、ある時、裁判所の期日に出かけた井上先生の上着に燦然と輝いていたのは立教大学野球部の襟章だけ……、弁護士入口から入ろうとして守衛さんに止められた井上先生は、初めは理由が分からず襟章を指さしながら、「ワシは弁護士や!」と主張していらっしゃいましたが、しばらくして気づき、大笑い……。一般入口で、きまり悪そうに、大きなカバンの中身の検査を受けて裁判所内へ入ってこられました。
 井上先生は、野球部の部長に就任なさってから、「六大学の部長は、順番で始球式をするらしいんよ。みっともない球を投げるわけにはいかんから、加地さん、アンタ練習台になってくれんか?」と度々おっしゃって、事務所の前の道路で練習をしようと張り切っていましたが、始球式の順番は井上先生に回って来ず、代わりに開会式の挨拶をなさることになりました。先生は、「なんや、ワシはボール投げる方がよかったなあ……。でも、開会式の時には、みんなで盛り上げてな!」「のぼりでも何でも目立つように応援たのむよ!」とのことでしたので、加地弁護士を筆頭に、事務所員一同が色々と工夫をして大きな横断幕を作りました。「祈優勝・立教大学 井上治典部長頑張れ!」とでも書いたと思います。開会式当日、その横断幕を持って事務所員全員で神宮外苑に出向き、井上先生の開会の辞の最中に、その横断幕を掲げました。「きっと、井上先生が喜ぶにちがいない!」と信じて……。しかし、すぐに血相を変えた係員が飛んできて、「困ります。やめてください」と言うではないですか。理由は、後の人に迷惑だからということでしたので、誰もいない外野席ならいいかと問うと、どこであろうと禁止されているとのこと。やむなく、せっかく作った横断幕をまるめました。帰り際に、井上先生にそのことを報告すると、「ああそうか。ワシはそんな決まりがあると知らんかったわ」とさらっとおっしゃって、応援団の主将らしき男子学生に、「事務所の人たちがこんなものを作ってくれたんよ。ハハハ、まあ、一生懸命やってくれたらしいわ! こんなもんだけど応援団で使えたら使うてくれんか……」。事務所員一同、唖然……。
 溌剌として美しいチアリーダーたちからも人気があり、また、チアリーダーたちのことも可愛がっておられました。

 井上先生は口癖のように、「ワシは200歳まで生きることに決めとるんや」とおっしゃり、必ず、それに続いて「アンタは先に死ぬだろうから、ワシがアンタの葬儀委員長をやってやるわ」と、ケラケラッと楽しそうに笑っていました。
 若者言葉や流行語にとても詳しく、疎い私にわざと分からないような言葉で話しかけ、「バアさんは駄目やなあ……」という会話も懐かしく思い出されます。

 「手続保障」について、井上先生が提唱されたものとはやや異なる視線から捉えているのは承知の上ですが、私は、今、事件当事者が自分自身の事件進行に関する手続や事件の争点、それに関連する法律を充分理解した上で、自らが自らの紛争処理に係わっていくことができるよう、弁護士の協働者として働いています。井上先生がご存命でいらしたら、「アンタは相変わらずアホやなあ。そんなやり方じゃあ駄目やないか」と怒られるかもしれませんが、「手続保障」を実務に根付かせたいと常におっしゃっていた井上先生のご遺志を、加地弁護士と私とで、できる限り実行したいと考えています。

 ダラダラと書いてしまいました。井上先生の想い出は書き尽くせません。200歳まで生きるとおっしゃっていた井上先生は、おそらく、今でも事務所員全員のことを見守っていてくださると信じています。

 最後になりますが、井上治典先生の最大のライバルは、お父様である井上正治先生だったのではないでしょうか。「あの有名な井上正治先生のご子息でいらっしゃいますか?」などと問われると、「ワシのほうがオヤジの何倍も有名なのに、アイツは何を言っとるんや!」などと不服そうでした。勿論、本当のところ、大変尊敬していらしたのでしょうが。
 井上先生が、「アンタ、これをずっと持っとると、もしかしたら価値が上がって金持ちになれるかもしれんよ」と、くださった、「刑法總論(井上正治著、惇信堂、昭和24年初版、昭和25年再版)」が、私の手許に二冊あります。大切に保存していましたが、表紙も中身も茶色に変色しています。この本をくださった井上先生のお気持ちに感謝しつつ、しかし、私の手許にあるのでは宝の持ち腐れになりそうです。どなたか、有意義に使っていただける方や方法などをお教えいただけませんか。よろしくお願いします。仮にそのような方法が見つからない場合には、井上先生のお父様の後輩の方々に使っていただこうと思い、お父様が法学部長をされた九州大学に寄贈したいと思っています。

(2010年初冬)