私が大学院生であり,民事訴訟法の大家・故井上治典教授に師事していたある日,井上先生に呼ばれた。曰く,
「アンタ,あした,時間空いてるか?」
記憶が定かでないが,「あした」というのは,土曜日か日曜日だったように思う。私が,
「はい,何も予定はありません」
と答えると,
「悪いが,ワシの代わりに行って欲しい所があるんよ。別に,なんもせんでええよ。ただワシの代理だと言って,ご馳走よばれてくるだけ。うまいもん食えたらアンタ嬉しいやろ。ワシは,急用ができてしもて……じゃあ,頼んだわ……」
案内状のようなものを私に渡し,井上先生はどこかに消えてしまわれた。
それは……,私の理解が間違っていたら大変申し訳ないのだが,おそらく,ある意味,日本裁判官ネットワークと同じような趣旨で運営されていたであろう全国裁判官懇話会の例会の案内状だった。日本裁判官ネットワークができる前の1995年頃だったと思う。場所は行ったこともない法曹会館……。困ったなあと思いながら,でも,指導教授の命に背くことなどできようはずもなく,私は,案内状を見ながら会場にたどり着いた。
何はともあれ,場違いの感があって,大層居心地が悪い時間を過ごしていた。周囲は裁判官ばかりで,勿論だれも知らない。裁判官と話をしたことがないから何を話したらよいのか分からない。ご馳走が並んでいたか否か定かではないが,そんな雰囲気ではなかったように思う。そんなことより,突然,司会者が信じられないような言葉を発した。
「本日は,立教大学教授・井上治典先生をお招きし,先生の理論につき一言お話しいただこうと考えておりましたが,急用で欠席とのこと……,代理で,井上先生の弟子,麻田さんがみえています。麻田さん,一言お願いします」
えーっ,私はびっくりして,本当にひっくり返りそうになった。勿論,何を話したか記憶にない。おそらく,壇上で,ひたすら汗を拭きながら,口をパクパクして,気が利かない被告人が言い訳を繰り返すかのように,わけの分からないことを繰り返していたのだと思う。当時経団連の役員だった宮内氏なども,壇上で話をしたと記憶している。
その日,例会終了後,何人かの裁判官の方々が,口をパクパクしていただけの哀れな私に声をかけてくださり,新橋のガード下の焼鳥屋で一緒にビールを飲んだ。
へえーっ,裁判官もこういう場所でビールを飲むんだ! 私にとって新鮮な驚きだった。
それから,数年して,日本裁判官ネットワークの誕生を知り,「裁判官は訴える!」を読んで,ガード下の焼鳥屋で裁判官の方々と話をしていたことがよみがえった。弁護士が書いた本はたくさんあるが,裁判官が本音を書いた本……,私は始めて読んだ。へーっ,そうなんだ,大変なんだ……,でも,裁判官が,ここまで書いて大丈夫なのかなあ,勇気がある裁判官だなあ……,私は様々な面から多くの驚きを感じた。法服を脱いだ裁判官って,想像していたより,ずっと人間味溢れているんだなあ,そして激務なんだなあと思った。
ここから,少し話がそれるが,私は,大学院修了後,故井上治典先生の「第三の波」を,少しでも実務に根付かせたいと考えていた。井上先生と同じような考えを持つ弁護士が私を雇用してくださって希望が叶った。そして,井上先生が亡くなる数年前からは,同じ事務所で,井上先生も共に試行錯誤しながら仕事を行ってきた。
「弁護士は,先ず実定法ありきで紛争の全体的解決を忘れている。紛争の全体的解決をするために,弁護士と依頼者との間に立って,依頼者の心を解きほぐし,どの争点がどう審理されているのかについて,依頼者が正しく理解できるような役割を担う人材が法律事務所に必要なのではないか……」井上先生の発想の下,現在の私の職域ができあがった。大阪大学の仁木恒夫先生も研究に加わってくださり,私たちが勝手に「リーガルコーディネーター」と名付けた。しかし,私は,特にそのような職域を確立したいと考えて仕事をしてきたわけではない。弁護士自身が,そのような考えを持って仕事に臨んでくれたなら,特別な職域など必要ないかもしれない。
2010年9月,長年,法律事務所職員として見聞きしてきた事件や弁護士を題材にして,「トラブル依頼人」(風塵社)を出版した。内容や質では,「裁判官は訴える!」に比べるべくもないが,弁護士が書いた本はあっても,法律事務所職員がその内部について書いた本は珍しいという点では,少し似通っているかもしれない。もし可能であれば,是非,ご一読を……。
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