● 特攻精神のゆくえ(「峠の落し文」から)
安原 浩 (広島高裁岡山支部) 
  引き続き、元裁判官樋口和博氏の自費出版随筆集「峠の落し文」からの1編を著者の了解を得て紹介します。(平成17年8月)

特攻精神のゆくえ

樋口和博
随筆「峠の落し文」から
 色の白い円い顔、濃い眉毛に厚い唇、澄んだまなざし、ぼろぼろの服装の中にもどことなく気品をそなえた紅顔の美少年である。その彼が土蔵破りの犯人として裁きを受けようとしている。さきに闇米を運んだという罪で懲役刑の執行猶予判決を二度も受けて間もなく、今度の事件でつかまり、公判に廻されたのである。

型通りの調べが終わり、検事の厳しい論告があり、実刑判決の言い渡しをした。言い渡しを終えて席を立とうとすると、突然、彼が、「裁判長! お願いがあります。聞いて貰えますか」と言いながら、まことに深刻な表情で訴えるように喋りだした。

 「自分は、今度の事件で刑務所に行かなくてはならないことはよく承知しております。この裁判についてはまったく不服もありません。ただ一つだけ裁判長に聴いて頂きたいことがあるのです。― 私の父は陸軍大尉でした。私はその長男に生まれ、姉一人妹一人に両親を交えて非常に幸せな幼少時を過ごしました。父は世渡りの下手な軍人で、同僚がどんどん出世して連隊長、旅団長などに栄進していく中を、文字通り万年大尉で終わった人であります。

 今度の戦争の末期に三度目の戦地派遣の命令を受けたとき、父は私達母子四人を集めて申しました。『戦争は極めて重大な段階に来ている。自分が今度南方へ行つたら生きて帰ることはないと思うから、これが最後と思つて聞いて貰いたい。お父さんはお前達も知っているように、上官にはまことに受けが悪く、甲斐性のない貧乏暮らしをしてお前達にも随分苦労をかけてすまなかつた。だがただ一つだけ、お父さんがお前達に自慢の出来ること、そして喜んで貰えることは、この父は日本人の誰にも負けないだけ天皇陛下に忠誠を尽くして来たということである。陛下に尽くす真心だけは、誰にも負けない自信がある。このたびも自分は死地に赴くことを命ぜられたようなものだが、陛下の命令とあらば喜んで行くのだ。自分の家は代々軍人の家である。長男であり一人息子であるお前も、どうか自分の後について来て欲しい。お母さんや女の子達は最後まで陛下の国土を立派に護り通して欲しい。これだけがお父さんの最後の願いである』と言つて元気に出発して行きました。

 私は当時、府立第○中学に在学し、成績はいつもクラスの中の二、三番でしたが、その途中から父の後を継いで特攻隊を志願しました。そして私の入隊中に、父はその言葉通り白木の箱に入って帰って来ました。私達家族は、涙一つこぼさずに父の遺骨を迎え、その霊前で父の立派な戦死をたたえ、私達もいずれ父の後を追ってお国のために殉ずることを誓いました。私は一日も早く特攻隊員として出動する日を楽しみにしていました。父の後を追って死ぬ日を心待ちにしていたのです。

 ところが、意外にも終戦で生きたまま帰されることになりました。私はかねてから上官に対してどうか死なせて下さい、飛ばせて下さい、と何遍となく頼みましたが、許して貰えませんでした。私はよれよれの軍服とよごれた軍靴で東京に帰って来ました。母や姉妹と会って、これから先のことを相談しようと考え、そこに淡い希望を抱いて帰って来たのです。

 しかし、帰京してみると、家は焼けて灰になっていました。母も姉も妹も焼け死んでいました。隣り組の人や町内の知り合いの人達の私に対する態度は冷淡そのものでした。その人達は、『あんたのところのお母さんやご姉妹達は自殺したようなもんです。この町内会の者はみんな安全地帯へ逃げて誰一人として死人も怪我人も出なかったのに、お宅の人達だけが家と一緒に心中したようなものです。逃げようと思えばいくらでも逃げられたのに、近所の人達の言うこともきかず、バケツで水をかけて消火しようとしているうちに、火に包まれてしまったのです。大体バケツの水であんな物凄い火を消せると思うこと自体、馬鹿げた話ですよ』と言って、冷たく批判しておりました。

 私は母や姉妹の死が近所の人達の笑いものになっていることを知りました。それでも母達が火に包まれて死んでいった気持は私にはよく解りました。戦争の末期になって、どうしても死にたかった私の気持とまったく同じことです。父が最後に残した『国土を最後まで護れ』との言葉を忠実に護って死んで行ったことがよく解るのです。それだけに世間の人達の冷笑が本当に憎らしいと思いました。

 私は東北地方に住む叔父や親戚を頼って行きましたが、ただでさえ食糧事情の厳しいときに、私のようなものに目をかけてくれる親戚もありませんでした。東京で学校に復帰する資力など勿論ありません。私は知人を頼りに東京で会社員になりました。その会社は闇物資を取り扱うインチキ会社でした。闇会社なんかで働けるものかと憤然と飛び出して、他に転じました。そこもやはり、まともな会社ではありませんで、また辞めてしまいました。よごれた軍服を着て銀座を歩いているとき、幼友達のろくでなしの男がりゅうとした服装でさっそうと闊歩しているのを見ました。そして、その幼友達から闇米の輸送で儲ける話を聞き、それからというもの,私は面目も正義感もあっさり捨て、夢中で闇米の輸送をやりました。

 何遍か検挙されました。罰金も何遍かとられました。どの罰金も闇米を二、三回運搬すれば直ぐ納まりました。また検挙され、懲役と罰金を一遍に科せられ、懲役刑は二度とも執行猶予になりました。そのうちに闇米の取締りがいよいよ厳しくなり、農家ではなかなか米を売らなくなりました。

 ある日のこと、一日中、米を購い求めて歩きましたが、どこの家でも売ってくれません。たまたま扉の開いている土蔵に無断で入り込み、米を持ち出そうとしたが見当たらず、二階のタンスの中から衣類を盗み出し、夜明けの駅の待合室で逮捕されたのです。

 裁判長! お願いです。私は一体どうしたらよいのか、それを教えていただきたいのです。私は先程も申し上げたように軍人の家に生まれました。父親からは天皇陛下に忠義を尽くせと言いきかされて来ました。母も、私の小さいときから、お前は天皇陛下の赤子だ、立派な軍人になってくれと申しておりました。小学校や中学校の先生達も、親しい友人先輩の誰も彼もが天皇陛下に忠義を尽くすことこそ最高の道徳だ、男子の務めだと教えてくれました。そして、私はそれを信じて来たのです。ところが、戦争に負けて還って来ると、世の中は変わっておりました。国土を護りぬく覚悟で死んだ母や姉妹は、世問から嘲笑されています。父の死も犬死になりました。軍隊から還った私達は、何か悪いことをした人間のように白眼視されています。そして、闇取引などで儲けた人間がうようよと威張り散らしています。私は何も信ずることが出来なくなりました。私は自分の罪の償いとして、甘んじて刑務所に行きます。だが,刑務所を出てからの私は一体何を目標に生きて行ったらのでしょうか。どうかそれを教えて下さい。裁判長! お願い致します」

 こう叫びながら、彼はその両頬からポロポロと落ちる涙を拭おうともせずに立ちつくしていた。

 閉廷を宣して自室に戻った私は、彼を部屋に導き入れ、黙ったまま彼の手を握った。彼は両手で私の手にしがみつきながら、おんおんと声を立てて泣いた。私は、「君の人生はまだ長い。これからじっくりと静かに自分が生きてゆく道を自分で考えてくれたまえ」と答えることが精一杯であった。私も涙の湧いてくるのをどうすることも出来なかった。


(昭和二十五年四月)