● 「悲しみ」が減ってしまった 刑事法廷の木漏れ日(6)
伊東武是(神戸家庭裁判所) 
 現代の社会,特に若い人達に「悲しみ」の感情が減ってしまったのではないか。代わりに,様々な場面で「怒り」の感情が増えていないか,教育心理学者が憂いている(速水敏彦「他人を見下す若者たち」講談社現代新書)。

 失恋はいつの時代にもあった。想いが届かず,相手の冷たい態度に出会ったとき,若者は,相手に見合わない自分の卑小さと醜さを苛み,失意に涙し,その涙によって悲しみを癒した。ところが,今の時代,想いを受けとめてくれない相手に対して,「怒り」の感情がしばしば若者の心を支配する。ストーカー犯罪は,失恋が「怒り」から攻撃に変わる極端な例である。刑事法廷や少年審判廷で,そんな事件に出会うことが多くなった。確かに,恋の恨みは昔からあったかもしれない。しかし,現代ほど執よう,攻撃的であっただろうか。

 寅さん映画の幕切れはいつも失恋である。ストーリーはこのおかしくも悲しい結末に向けていかに盛り上げて行くかにあるようだ。彼の失恋は,大方は「振られる」形である。一人よがりの片思いにようやく気がついた寅さんは,黙ってカバン一つを持ち,旅に出ようとする。妹さくらには兄の悲しみが痛いほど分かる。慰めの言葉は短い。さくらの涙は観客の寅さんへの思いと一体化する。しかし,寅さん映画で,別の種類の「悲しみ」を見ることがある。相手も十分その気になっているのに,寅さんは,やくざな自分と所帯を持てば相手をきっと不幸にするに違いない,そんな思いを抱いて,そっと身を引きまた旅に出る。前者が,想いが満たされない単純な「悲しみ」であるなら,後者の寅さんの後ろ姿にはもっと質の高い「悲しみ」がただよい,それが観客の心を洗うのである。 

 「悲しみ」は人間の弱さを象徴する感情であるのに対して,「怒り」は人間の強さを象徴する感情だという。競争社会,格差社会では,人間の「弱さ」は否定され隠されるべきものかもしれない。逆に,人間の「強さ」こそ,時代をさっそうと生き抜く武器となる。そうした風潮の中で,自尊感情だけが異常に肥大して「強さ」を仮想する人は,失恋を「悲しみ」の中で癒すことができない。「怒り」となって,ストーカー行動につながりかねない。

 自らの弱さを知り,悲しみを知る人間こそ,他の人の悲しみが理解でき,他の人間へのやさしさを持ちうるのである。
(平成18年6月)