その人は,いつも,誰もいない傍聴席の一番後ろで,死んだ妻と子供の遺影をしっかり抱えながら,身動きひとつせず静かに座っていた。しかし,その目は必死に訴えている。法廷のどんな動きも見逃さない緊張感をたたえつつ。交通事件の公判である。
被告人は,交通閑散な片側1車線の直線道路を,制限速度40キロメートルを大きく超える時速約90キロメートルで走行していた。突然,その車両の前に,脇道から進入してきた被害者(女性)運転の乗用車が出てきた。被告人は危険を感じて約10メートル手前でブレーキを踏んだが間に合わず,激しく衝突した。被害車は押し出され,スピンしつつ滑走して大破した。被害者とその子(2歳の女児)の2人が即死し,もう1人の子供(4歳の女児)も重傷を負った。目を覆うばかりの悲惨な事故である。傍聴者は,被害者らの夫であり父であった。幸せな一家は一瞬にして崩壊したのだ。
被害者側にも少なくない落ち度があった。被害者が進行してきた脇道には,交差点手前に一時停止の交通標識があったのに,被害者車両は,一時停止することなく道路に進入してきたのである。
被告人側は速度超過の程度を争ったが,捜査側の速度鑑定に疑問を抱かせるに足りる証拠は提出されなかった。被害者の夫が遺族の被害感情を立証する証人として法廷に立った。幸せだった一家の姿を示すため,家族の写真スライドが法廷で映された。そこには,かわいい子供達を囲んだ温かい家庭があった。夫は,激しく泣きじゃくりながら妻と子供の思い出を語り,被告人を強く非難した。しかし,妻の落ち度は決して認めなかった。あの慎重な妻が,そのような運転をすることは絶対あり得ないと。しかし,被害者が一時停止しなかったことは,目撃者らの証言からも動かし難いのである。
検察官は,結果の重大性,悲惨さそれに被告人の無謀運転を強調して厳しく重い求刑をした。弁護人は,被害者の落ち度を強調して,執行猶予を求めた。私の判断は,迷った末,求刑を半分以下に減じた上での実刑となった。判決の説明の中で,被害者の落ち度に触れざるを得なかった。検察官は不満そうであったが控訴はせず,被告人が量刑不当で控訴した。しかし,まもなく棄却され,確定した。
事故の悲惨さと遺族の必死の訴え,そして量刑での迷いなどから,忘れられない事件の一つである。傍聴席の夫は,あの判決をどんな思いで聞いたであろうか。 |