● ホストファミリー体験記(その3)

工藤涼二(千葉地裁) 

 今回は,前回少しご紹介したミャンマー(ビルマ)から来たムームーさんという女性のことについて書いてみたいと思う。

 わが家初めてのアジア人ということになるが,なぜこれまでと異なってアジア人を受け入れることになったかというと,それまでの2年間ほどの経験で感じたことであるが,英語圏の白人については何とか受け入れ先は見つかるが,それ以外,特に東南アジアの人についてはなかなか難しいということを知り,今度はそういった国の人のお世話をしたいと思っていたところ,ある日の朝刊に,神戸にあるPHD協会という(今でいう)NGOの組織があって,ホームステイ先を探しているという記事が載っていた。それが当時の私の法律事務所のすぐ近くだったので,早速伺ってお話を聞いてみた。すると,PHD協会とは,大分前になるが,実際にネパールに行かれてトラホームやトラコーマなどの眼病に苦しんでいる人々を献身的に治療された眼科医の岩村先生が設立された組織で,物質的援助ではなく,継続的な人材の育成を通じて発展途上国を支援していこうとするものであるという(岩村先生はマヤちゃんというネパールの子を養女にされているが,これらのことについて「我が愛はヒマラヤの子に」という岩波新書を出しておられて,私も高校生の頃に読んで感銘を受けたことがある。)。

 共鳴するところがあって,その場で早速引き受けたのがムームーさんという訳である。彼女はクリスチャンで,しとやかでとても優しい気品のある30歳を少し過ぎた女性だった。子どもさんはないが,結婚していて,ビルマのある小さな村で保母さんをしており,保健衛生の知識を得るために日本に来たのである。来日してとにかく驚いたのは六甲山の上から見た夜景だそうで,国の村にはガス,水道はもちろん,電気もないので夜景など殆ど見たことがなかったからだそうである。また,トイレもなく衛生状態も極端に悪いのに国民の衛生観念が確立していないので,子どもたちにまず食事の前には清潔な水で手を洗うというところから教えなければならないとのことだった。物資も不足しているので,使い残しの食用油から石けんを作る技術も学んでいった。そして,金属製はもちろんのこと,包装用の紙箱すらもビルマでは非常な貴重品で,日本では簡単に捨てるのが信じられないと言ったり,再築のために取り壊される家を見ては「まだ十分住めるのにどうして壊すのか。」としきりに嘆いていた。

 わが家をベースキャンプとして,1ヶ月から2ヶ月くらい各地の研修に出かけていったので,結局うちにいたのは5ヶ月くらいであった。暑いところから来たので冬は辛そうだったが,どうしても風呂には入らずシャワーで済ませていた。ビルマでは浴衣代わりの布を巻いて,井戸水の周りで体を洗うとのことで熱い湯につかるという風習はないらしい。

また,甥と姪(お姉さんの子)がいるが,お姉さんは病弱で余命も長くないらしく,義理のお兄さんも体が弱いということでとても心配していた。岩村先生にならって,私達が引き受けて日本で育てようかという話も出たのであるが,やはり色々難しく,実現しなかった。

 翌年,家内がムームーさんの村を訪ねたときのことであるが,話どおりトイレがなく,バスの影で用をたすこともしばしばだったが,村人はみな本当に心優しく,夜道(月が出ていないと文字通り漆黒の闇らしい)で日本人が動けないでいると,近くの家から次々と駆けつけて,にこやかに手を取って案内してくれたそうである。また,食事に困った家があると,自分たちも裕福とは程遠い生活をしているのに,一握りの米を持ち寄って助け合うという心温まる風習を持っていた。 村人との交歓会では,レジャーも少ないせいか,日本ではとてもうけないような隠し芸でも盛大な拍手で応えてくれたそうである。

 ムームーさんが去って,10年以上が過ぎた。ミャンマーの軍事政権はまだ権力を握っていて,アウン・サン・スーチーさんも釈放されない。国情が安定しないと,ムームーさんの村のような地方の発展は望めないだろう。

 神戸のわが家には,彼女が置き忘れたビルマ語と英語の辞書が残されている。彼女の日本語があやしくならないうちに,これを届けるため,私も一度訪れてみたいと思っている。
=第3話完=
(平成18年10月)