前回ご紹介したタマラの次にわが家に3ヶ月ほど来たのがスー・リン・ウォンである。スー・リンは,中国人の父親とドイツ人の母との間の女の子で,アジア人らしい豊かな黒髪と黒い瞳,きめ細かな肌を持っていたが,彫りの深い顔立ちがゲルマン人の血を引いていることを示していた。オーストラリアで生まれ育ったはずだが,他の白人生徒とは異なり,相手に合わせる質の性格で,一緒にいてもあまり気を遣わずに済んで楽だったが,逆に,本当は何を望んでいるのか分かりにくい面もあり,手はかかるものの言いたいことを言ってくれた方がやりやすい面もあるように感じられた。スー・リンについて印象的だったのは,「オーストラリアでは常に自分の意見を持ち,自己主張していないとアイデンティティが失われそうで不安になるが,日本では別に何も言わなくてもよいので,かえって過ごしやすい」と言っていたことである。「へえ〜。そういうものかぁ」と妙に感心した記憶がある。私はビートルズが好きで家にもCDが何枚もあったが,彼女も好きなようで結構よく聞いていた。「生まれるずっと前の曲なのにどうしてそんなにたくさんの曲を知っているのか?」と聞くと「ビートルズは自分たちの世代にとってはもはやクラシックだ」とのことで,世代の違いを感じさせられた。1年後に帰国し,その後慶応大学に留学したと聞いたが特に何の連絡もないまま今日に至っている。もう二〇代後半にはなっているはずで,ひょっとするとママになっているかも知れない。
時系列順に行くと,スー・リンの後はミャンマー(ビルマ)から来たムームーさんという保母さんをしていた女性ということになるが,彼女のことは次回に回すこととして,先にオーストラリアのメルボルンからきた留学生のことについてお話ししたい。オーストラリアからの高校生としては3人目ということになるが,キーラン・ランスという男の子である。彼は阪神淡路大震災後まだ落ち着かないうちに緊張した顔つきでわが家にやって来た。息子のいないわが家で,妻も初めて男の子から「お母さん」と呼ばれてまんざらでもないようであった。面白かったのは,これまでの2人と同様に彼女と「別れて」日本に来ていることである。「1年も束縛するのはお互い良くない」などと皆大人びたことを言うので驚くというかおかしいというか妙な感じがしたものである。その彼女から手紙をもらって小躍りして喜んだり,学校の成績について,どの科目もAだとかAプラスだと自慢したりして,体は毛深くて大人のようであってもやっぱり高校生なんだなと安心したりした。通知表の成績を聞く度に,家族全員で「すご〜い!」と反応していたら,「どういう意味か」と聞いてきた。そこで「グレイトということだ」と答えたら気に入ったらしく,すぐ「すっご〜い!」と上手に使うようになった。しばらくは元気に通学し,剣道部や文化祭の英語劇で活躍していたようだが,タマラと同じでやがて学校に行くのを嫌がるようになった。幸い高校1年生だった末娘のクラスメイトの男の子と仲良くなりいろいろ話すことで落ち着いたのか,時にはさぼりながらも何とか1年頑張ることができた。末娘が交換留学でキャンベラに行ったので,妻が娘に会いに行ったときに彼の実家に泊めてもらったそうである。ホストファミリーをしていると時にはこういう恩典にも恵まれる。わが家では犬の散歩をしてくれたり,私がギターを教えたりして楽しく過ごせたが,シャワーを何十分も使うので家内がしょっちゅう叱りとばしていた。
キーランは,帰国後大学に進学したが,時折国際電話をかけてきて「日本語を勉強している」と言っていた。卒業間際にもかけてきて「日本で中学校の英語補助教員の仕事を探している」とのことであったが,3年前,岡山県の鴨方町に就職が決まり,再び日本にやって来た(その間には妹のカリーンも日本に来ていたが,わが家には1度来ただけだった。)。数年ぶりにあったキーランは高校生時代に比べるとすっかり大人びていて,友人の影響でベジタリアンになったとのことであった。私が広島高裁に勤務していた一昨年の秋,両親とカリーンが日本旅行に来られたので,官舎にも来てもらい,また神戸の自宅にも泊まってもらった。相手をしたのは2〜3日だったが,英語で応対しなければならなかったので,私の会話力では結構大変だった。
その後何度か遊びに来ていたが,今春,キーランの任期が終わるのでまた別れの時を迎えることになった。最後に私達家族に会いたいから泊まりがけで行ってもいいかというので,私もそれに合わせて帰省し,結婚した娘達も呼び寄せてフェアウエル・パーティを開いた。記念写真も済ませ涙のお別れを済ませたはずだったが,関西空港から出発するからそれまで泊めて欲しいといってすぐにまたやって来た。帰国後は小学校の教師を目指して頑張るそうであるが,子ども好きな彼のことだからきっといい教師になってくれるものと信じている。 |