● 弁護士任官どどいつ(29)

竹内浩史(さいたま地裁川越支部) 
顔も名前も 隠してないが 「名もない顔もない司法」

 ダニエル・H・フット著「名もない顔もない司法」を読んだ。
 冒頭にはアメリカ連邦最高裁判所の法廷の9つの椅子の大きさと形がそれぞれ違うという話が出て来る。それと対比して日本の裁判所では個性よりも統一性が重視され「名もなく顔もない裁判官が理想とされる」。
 そのとおりだろうが、私は、これは裁判所の問題以前に、日本人の国民性を色濃く反映したものだと思う。
 もちろん日本の裁判所も、審理判決をする裁判官の名や顔を隠しているわけではない。

あえて名付けりゃ 金太郎さんか 「名もない顔もない司法」

 全国均一と判例統一に過剰にこだわる傾向は、反面において裁判官の個性を押し殺すことにつながりかねないのではないか。そういった問題意識を日本人はもっと持つべきだと思う。
 同じ人が「日本の裁判官は金太郎飴のようで個性がない」と批判する一方で「日本国民は全国津々浦々で均一の司法サービスが受けられるべきだ」と要求することに、本当に矛盾はないのだろうか。

二人の陪席 裁判官は 「名もない顔もない司法」

 少し違う問題だが、以前から裁判報道に不満を抱いていることがある。
 3人の裁判官が評議の秘密の下で多数決で出した結論のはずなのに、判決報道では裁判長の名前だけになっていることである。テレビの法廷撮影でさえ、真ん中の裁判長しか映さないことがある。ドキュメンタリー「裁判長のお弁当」では、法廷画家のイラストでもカットされていた陪席裁判官がショックを受けていた。著名な判決に至っては、後々まで裁判長の名前を冠して呼ぶことが当たり前となっている。
 おそらく、合議体の結論は裁判長の意見と同じに違いないという世間の思い込み、さらに言えば日本社会の空気を反映しているのだろう。このような報道姿勢が、実際の合議の場面で陪席裁判官の遠慮につながる可能性はないかという問題も考えていただきたい。

裁判員でも 乗り越えられぬ? 「名もない顔もない司法」

 著書の最終章「裁判員制度」の最後の項目の見出しは、「名もない顔もない司法」からの脱却?
 率直に言って、法廷場面の報道でさえ「名も顔も公表しない」裁判員が参加することのみによって、ここから脱却することは不可能なように思われる。せめて、評議の秘密を実質的に侵害しない限度で、裁判員が「名も顔もある」裁判官たちと議論した経験を自由に公表することを認めていかなければ、この面では一歩の前進もないのではなかろうか。

(平成21年2月)