● 弁護士任官どどいつ(12)
竹内浩史(東京地裁) 
「眞鍋かをりや 古田にならい ブログ私も 始めます」
ついにこの「弁護士任官どどいつ」が、日本裁判官ネットワークのホームページから独立を果たした。と言っても、私個人でブログ(http://blog.goo.ne.jp/gootest32)を開き、内容をリンクさせることにしただけだが。ホームページは2か月に1回の更新になるので、日々の話題等から作った「どどいつ」は、まずブログに掲載し、後で適宜解説を付けてホームページに掲載するようにしたい。実は、ブログの開き方を教わったのは、東京地裁が募集した講習会だった(参加希望者抽選で有料)。つくづく裁判所も開けて来たと感じる。

「弁護士過疎地の 是正の鍵は 頑張ろうという 意識です?!」
3月6日のNHK「クローズアップ現代」は弁護士過疎問題を取り上げた「弁護士は増えたけれど」。国谷裕子キャスターの最後の質問「この格差是正の鍵はずばり何でしょうか?」に日弁連会長は「それは若い人の意識です。頑張ろうという意識です」と答えたという。しかし、弁護士の大都市集中を招いたのは、先輩弁護士たちである。若手弁護士の意識の問題にするのはいかがなものか。むしろ、地方の公設事務所では若手が死闘しているではないか。意識の問題なら、赴任する先輩弁護士が少ない事が寂しい。

「果たして日本で 通じる洒落か (笑)の取れる 裁判官」
「どどいつ判決 書きたいけれど たぶん世間が 許さない」
1月22日の朝日新聞に「裁判官のユーモア度を測ろう」と題する記事が載った。アメリカの連邦最高裁の最近の口頭弁論の速記録を調べ、(笑)と書いてある回数を数えた人がいて、スカリア判事が群を抜いていたという。さて日本ではどうか、という論旨だが、洒落の好きな裁判官は結構いる。しかし生真面目な日本の法廷では通用しないのでは。例えば私は判決はどどいつに翻訳できると思っているが、どうだろう。ブログでは報道された判決で試みたい

「定理・証明・判決理由 短くできれば 美しい」
数学者が主人公の映画2本を見た。「博士の愛した数式」と「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」。数学の証明問題と判決理由とは通じるところがあると気づいた。本当は、数学の定理や、その証明と同様、極限まで短い方が美しい。しかし、それは名人の成せる技であって、難しい。ちなみに、判決理由が短いと批判された例では、実際に方程式を使って書かれていた。交通事故の損害賠償請求事件で、原告の請求が認容される条件は過失相殺割合が何%以下かを算出し、明らかにそれ以上だという理由だけで請求棄却していた。

「判事・弁護士 表と裏の 弁護士任官 扇子いい?」
日本では裁判官・弁護士グッズが乏しい。そこで私は自分で制作し、適宜配っている。任官直前に最初に作ったのは憲法76条3項の条文「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」を白抜き(地は青・黒の2種)にした扇子。次に弁護士法1条1項「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」の扇子(地は緑・黒の2種)。今回は両面印刷(憲法を黒地白抜き、弁護士法は白地に黒字)の扇子を作った。これぞ弁護士任官扇子。センスいい?

「若い判事は 良心でなく 例に従い 判断す」
「若い弁護士 依頼者だけを 擁護すること 使命とす」
憲法76条3項は、憲法・法律だけでは一義的に答が出ないような難事件については、良心に従い独りで悩んで判断するほかないという裁判官の神髄を示すと思う。最初から正解があると信じ込むと、事案が違う「判例」に飛び付いて誤る。弁護士法1条1項も弁護士の真価を格調高く表現している。「依頼者の利益を擁護することを使命とする」ではないのだ。敢えて意訳すれば「勝つべき事件は勝ち、負けるべき事件は美しく負けることを使命とする」であろうか。

「神の国には なりなくないが 普通の国では MOTTAINAI」
「神も仏も 唯一神も みんな仲良く 暮らす国」
藤原正彦「国家の品格」(新潮新書)を読んだ。日本に生まれて良かったと思っている私には、共感する部分が多い。もう「グローバル・スタンダード」と称してA国の真似をするのはやめにしたらどうか、日本の「国柄」を大事にしないと、マータイさんではないが「もったいない」のではないか。真の平和を世界に広め、国際紛争を仲裁する資格と責務が日本にはあると思う。ただ、本の中で物足りなく感じたのは、司法に触れているのは「国策捜査」(81頁)だけだった点。

「世間知らずに ならないように 人気俳優 お忍びで」
4月に始まる弁護士ドラマの参考にしたいという事で、人気俳優御一行様が裁判所を見学に来られた。テレビで拝見している有名人にお目にかかれて光栄だった。大変だなあと思ったのは、超人気俳優は、騒ぎが起きないように変装して歩かねばならなかった事。赤提灯に行けないのは、裁判官よりも彼らではないか。これでは「世間知らず」、良い意味でも悪い意味でも「役者バカ」になりかねない。そうならないよう、演ずべき実物を万難を排して偵察に来られた心意気に感銘を受け、改めて大ファンになった。

「口で言うのを 省いたメール 全部証拠に 残ってる」
「メールじゃ筆跡 分からないから 出所不明じゃ 意味が無い」
最近、メールで明暗を分ける事件が続いた。しかし、私のこれまでの経験では、民事裁判、特に男女間の紛争では、メールはいい証拠になるという感想を抱いている。何しろ当人がその日時に書いた事に間違いなければ、弁解が難しい。愛の囁きなど口で言えば証拠に残らなかったのに、と思う事もある。もっとも、メールでは筆跡が分からない。偽造メールの疑いがあれば、証拠価値は皆無である事にくれぐれも留意を要する。当たり前だが、いい教訓だ。

「途中経過を ジャッジが言えば 試合はなかなか 終わらない」
民事裁判の中途での心証開示はどうすべきか、なかなか悩ましい。昨年の全国裁判官懇話会で、弁護士任官の先輩が次のような試みを紹介していた。毎回の期日で、野球の試合に例えて、今が何回あたりで点差が何対何かを言う(判例時報1907号15頁)。確かに透明性は高いが、これをやると事件は溜まるという問題がある。負けている方が粘って、なかなか結審させてくれないからだ。だから、対立が激しい事件では、結審後にしか心証を明らかにしないという選択をせざるを得ない例もある。

「ポーカーフェイスも 見え見えになり シャッフルしなけりゃ なりません」
毎年4月1日には、多くの裁判官が異動する。約3年に1度もの転勤は不要ではないかという意見もある。しかし、公平という事に非常にこだわる日本では、ある程度仕方ないかも知れないと感じるようになった。裁判官の間の公平だけでなく、裁判利用者間の公平である。どこで裁判を起こしても担当裁判官は偶然に決まったという形にするため、裁判所全体を巨大かつ精緻なルーレットにしなければならないのだ。実は裁判官にとっても、傾向が読まれるようになるとやりにくいという場合もある。

「まじめ国民 日本とドイツ 判事違うの なんでだろう」
「日独裁判官物語」という映画があった。ドイツと比べて日本の裁判官は自由がないという内容である。しかし、裁判官はその国民の一部なのだから、国民性の反映でもある。試みにABCDの4パターンに分類して示す。まじめ度が相対的に低い国民性の下、裁判官により高くを求めると、裁判官はカツラを被らなければならなくなり(B型)、求めないと賄賂を取るようにもなる(C型)。まじめ度が高い国民が裁判官に更に高くを求めると日本のようにやや窮屈になり(A型)、求めないとドイツのように自由になる(D型)。
(平成18年4月)