● 弁護士任官どどいつ(9)
竹内浩史(東京地裁) 
8月上旬、夏休みを利用してスペインを旅行した。
まず、バルセロナにて一句。

「築き始めて 百年たつが 日本の司法も 未完成」

サグラダファミリア教会は、ガウディの建築で有名だが、1882年の着工以来、塔もまだ半分ほどしか建っていない。そのためか、世界遺産にも未登録のようだ。しかし、壮大な建築計画には感動を覚える。考えてみれば、日本の裁判所制度も、1890年からだから、歴史の長さは同等だ。未完成なのも同様で、これから数年かけて裁判員制度という大きな塔も建てねばならない。司法改革の成功にも、必要な時間を惜しまない事が大切だろう。


次に訪れたグラナダのアルハンブラ宮殿にて一句。

「神が違うと 攻め滅ぼすは 神の教えに 背くはず」

この地方は長らくイスラム教徒が支配し、キリスト教徒が奪回したとの歴史をもつ。それもさることながら、スペインによる中南米征服もキリスト教の布教を大義名分にしていた。唐突にインディオの村を訪れて改宗を迫り、拒否されると攻め滅ぼす。しかし、当時のスペインにも、これはキリストの教えに反すると堂々と批判した聖職者たちがいたのが救いだ(岩根国和「物語スペインの歴史 人物篇」中公新書)。それにしても宗教絡みの紛争は解決が難しい。私たち裁判官も頭を悩ませる。


マドリッドのプラド美術館にて一句。

「胸を撃たれる 市民を描く ゴヤの名画が 胸を打つ」

スペイン人は、全館、略奪等によらず平和的に入手した作品だと胸を張る。私が最も感動したのは、ゴヤの「1808年5月3日の銃殺」。その前日、フランス軍の侵攻に抵抗したマドリッド市民たちが鎮圧され、銃殺される直前の瞬間を描く。現地の案内の方に、ピカソの「ゲルニカ」等に先立つ世界初の反戦画と解説していただいた。宮廷画家のゴヤが、このような社会派の名作を残したのは凄い。日本も終戦60年。悲劇を繰り返さないために、それぞれが何をできるか真剣に考えなければ。

トレドでも名画を見た。そこで一句。

「神の代わりに 神ならぬ身が 下す審判 悩ましい」

サント・トメ教会では、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」を鑑賞した。宗教画の題材に多いキリストによる「最後の審判」の絵の一種なのだが、この教会を寄進した伯爵が、特例で直ちに天国入りを許されたという具体的事案を描く。教会への寄付を促すCMとしても大傑作だ。さて、司法は三権の一つであって、それ以上でも以下でもなく、個々の裁判官も全知全能ではない。しかし、裁判官への期待は大きく、政治・社会のあらゆる難問が持ち込まれ、解決を求められるのが現状だ。


「誰が決めたか、しちゃいけないと。裁判官も、弁明を」

8月27日の東京新聞朝刊で「裁判長、未遂者に自殺容認発言?」との見出しの記事を読み、反論したくなった。自宅アパートでガス自殺を図って火災を起こし、他人を死なせたとして、ガス漏出等致死罪に問われた被告人の初公判で、裁判長が人を巻き込まない自殺方法を選択しなかった理由を質問したことが「迷惑を掛けないようにすればいいと受け取られかねない」と批判された。しかし、刑法には「自殺未遂罪」はないのだから、的外れであろう。裁判官も時には弁明した方がいいのではないだろうか。


「ひとの事件に、意見は言えぬ。自分のだったら、なお言えぬ」

その被告人はガス漏出の責任を問われているのだから、裁判長の質問が不当とは思えない。批判した弁護人こそ「自殺を図ったこと自体の責任を問うべき」との被告人に不利益な意見を述べたと誤解されかねないのではないか。弁護士任官した私が残念に思うのは「裁判官は弁明せず」や「裁判官の独立」への過剰な配慮の余りか、的外れな批判に対しても裁判官が反論しないことである。司法への信頼を確保するため、誤解は解いた方がよいと思う。そういう私も反論の投書は躊躇しているが。


「たしかあれには わたくしたちは 減俸されぬと 書いてある」

今年の人事院勧告に従えば、地方勤務の裁判官は大幅に減俸されることになりそうである。しかし、裁判官は他の公務員と異なって数年ごとに全国的な転勤に従っている。たまたま地方に勤務した裁判官の不公平感は無視できない。裁判官の報酬は在任中、減額することができないとの憲法80条2項の規定に違反しないと説明するのも困難ではないか。どうも裁判官は自分の権利の主張に遠慮があり過ぎる。今年の総会では、半ばタブー視されてきた裁判官の報酬問題に、正面から取り組みたい。


「有り得ないけど 上司を評価 できる機会に ×付ける?」

普通の会社では、社員が社長の評価をし、時には解任するなどという事は、ほとんど有り得ないだろう。しかし、裁判官に限っては、その機会が憲法で保障されている。最高裁裁判官の国民審査である。この制度は、×点が過半数で罷免された例が皆無であるように、機能しているとは言い難い。しかし、私は廃止論には与しない。機能しないのは、最高裁裁判官それぞれがどんな人か、知られていないからである。まず弁護士会で先行して模擬投票をし、有権者に参考にして貰ったらどうだろう。


「選挙終われば 奴隷と言うが 選挙中には 何してた」

総選挙が終わった。裁判官は選挙運動を禁止されており、選挙結果も論じないが、有権者は選挙にもっと責任を持ってほしい。国民主権として代表民主制を採用し、国会を国権の最高機関とする憲法の下で、そこで決まった事を覆すのは、違憲立法審査権をもつ司法権にしても容易ではない。選挙での敗者が逆転勝利を求めて裁判所に訴える事ができるのは、選挙・当選無効訴訟の場合くらいであろう。昔は「選挙が終われば奴隷」と言われたが、今は裁判に頼る「司法おまかせ民主主義」になりかねない。


「判事きっての 外交官が あとを託した 置き土産」

9月14日の最高裁判決には感嘆した。在外日本人の国政選挙権を奪ってきた公選法の規定を違憲と判断し、次回の選挙権を確認し、一人5000円の国家賠償を命じた。朝日新聞には、大法廷回付前の裁判長で、補足意見を付した福田博最高裁判事の退官の置き土産だと書いてあった。福田さんは外交官出身で、「一票の格差」訴訟では一人一票の原則に厳格に従うべきとの少数意見を一貫して表明してきた。退官により最高裁に外交官はいなくなったが、数十万人の在外日本人という外交官に後事が託された。


「大丈夫かな? と言われぬように 裁判員の 鬼となる」

9月15日、私のいる東京地裁民事17部でサプライズ人事があった。裁判長の鬼澤友直判事が、最高裁事務総局刑事局の総括参事官に転出し、裁判員制度の立ち上げに携わる事になったのだ。昨年は保全部で「週刊文春」とUFJ銀行に差止めを命じ注目を集めた方。私はこの半年弱しか御一緒できなかったが、素晴らしい方で、裁判員制度の「広告塔」として白羽の矢が立ったのたろう。挨拶に来た裁判官が帰り際に「大丈夫かな?」と漏らし、一同爆笑。裁判員制度の事か、鬼澤さんの事か。どちらも応援したい。


「評議加わる 裁判員は 市民代表 オンブズマン」

9月17日、日本裁判官ネットワークの例会で、アメリカ留学から帰国したばかりの裁判官から陪審員裁判の話を聞いた。日本で始まる裁判員制度とは異なり、有罪か無罪かだけを市民の全員一致で評決する制度である。完璧な制度はなく、国情の差もあるから、裁判員制度が劣るとは言えまい。私も同意見だったのは、裁判員は少なくとも職業裁判官による合議を監視する役割を果たすだろうという点だった。「疑わしきは罰せず」の大原則は守られているか、量刑が安易に流れていないか、積極的に評議に参加してほしい。


「開示請求 迷ったけれど 貰って良かった 通信簿」

裁判官の人事評価制度が始まって、今年は2年目。多くの裁判所では、9月から人事評価書の開示請求期間が始まる。去年は、私は東京高裁にいて、開示請求をするかどうか迷った末、請求して写しを貰った。長官自らの面接等に基づき、丁寧に評価していただいていて感激した。今年の日弁連司法シンポジウムでの最高裁の総務局長の言及によれば、去年の開示請求者は数十人に留まらなかったそうだ。せっかくだから今後も忘れずに開示請求し、7年半後に再任を希望するか否かの判断資料にしようと思う。


「すぐに幸せ 無理なのならば 不幸にならぬ 説明会」

このホームページへの投稿で知ったのだが、福井地裁では毎週定例の日時に多重債務者のための「自己破産説明会」が開催されているのだそうだ。投稿者は「なんとネガティブなサービスでしょう。そのうち、自己破産すらできない人達には、首のくくり方の講習会でも開くのでしょうか?」という。しかし、私はそうは思わない。むしろ他の裁判所でも検討すべき試みだと思う。そもそも裁判所は、病院と同様、不幸になった人が訪れる事が多い。最悪の事態に至らせないためにこそ、このような説明会は有意義だ。
(平成17年9月)


(おまけ)
ふくろう 
 竹内さんの都々逸を拝見して、私も作りたくなりました。七七七五でいいのでしょうか。少し字余りですが。

 減額違憲といいたいけれど 高給露見は少しいや

 変わりばえせぬ 評価書見ると 所長の評価 書いてみたい

 オンブズマンとは カッコはいいが 『おんぶ』されては いけません
(平成17年10月)